トップページ > 貴重資料 > 『西郷隆盛と西南戦争』

『西郷隆盛と西南戦争』

椎原国幹画掛軸「鷲の画」

No. 86
タイトル 椎原国幹画掛軸「鷲の画」
作 者 名 椎原国幹
出 版 年 不明
出 版 者 不明
出 版 地 不明
種  別 画掛軸
請求記号 K72シ
大 き さ 184.0×72.0(129.0×58.5)

 

椎原国幹(しいはら くにもと文政3(1820)年~明治32(1899)年,薩摩藩士。幼名鉄太郎,通称は与三次,与右衛門といい,厚助と号した。鹿児島城下平馬場に生まれる。嘉永5年横目助,万延元年諸受持掛御郡奉行を勤めていた。維新当初薩摩藩の典事となった。西南戦争では西郷に応じ五番大隊の大小荷駄となった。熊本での敗戦後各地を転戦し,のち延岡において政府軍に降った。懲役二年の刑をうけ宮城監獄で服役した。出獄後明治14年鹿児島学校長となり,のち島津忠済の家令となり,明治32年10月26日に病没した。年八十。国幹の姉は西郷の母であり,国幹は西郷の叔父にあたる。国幹の娘が川村純義と結婚したので川村は西郷の従弟にあたる。国幹は西郷より六歳だけ年長であるから叔父というよりも兄のような感じであったろう。しかし「西郷家万留」を見れば,父吉兵衛の死亡届,加治屋町の居屋敷売買,高売渡などの届出や証人など,また西郷遠島の時の親族付帳などには椎原国幹・権兵衛兄弟と妹婿の市来正之丞の名前がよく出てくるが,この椎原家と市来家とが両親亡き後の西郷家にとっては最も頼りになる親戚であったろう。国幹が宮城監獄の任期が満ちて帰ってきた夜,西郷の妻糸が訪ねて来たという記録は椎原家と西郷家との近い間柄を示すものである。


 

野村忍助(南陽)書掛軸 ,(忍竹)苦学

No. 110
タイトル 野村忍助(南陽)書掛軸 ,(忍竹)苦学
著 者 名 野村忍助
出 版 年 不明
出 版 者 不明
出 版 地 不明
種  別 書掛軸
請求記号 K72ノ
大 き さ 185.0×42.5(133.0×30.5)

 

野村忍助(のむら おしすけ 弘化3(1846)年~明治21(1888)年)初名亀次郎,十郎太,斉蔵と称し,朝雄,盛業とも称す。和歌では梅廻舎,書に南陽と号す。折田清太夫の第二子として鹿児島城下常盤町に生まれ,母方の野村盛香の養子となる。戊辰戦争で四番隊の斥候となり,奥羽に転戦して功あり。賞典録若干を賜る。明治2年鹿児島常備隊の小隊長に任ず。同4(1871)年上京して近衛陸軍大尉に任じ,大洲(愛媛)県判事となる。翌年辞職して帰鹿。明治8(1875)年鹿児島県四等警部,警察署長となる。ついで三等警部に進む。明治9年冬大阪に行き,天下の状勢を視察す。西南戦争では四番大隊三番小隊長となり肥後山鹿方面に戦う。4月21日奇兵隊大隊長となり豊後方面に戦う。8月可愛嶽を脱出して西郷に従い鹿児島に入る。9月24日城山にて捕虜となり(負傷していた)懲役10年の刑を受け東京市ヶ谷監獄にて服役,明治14年特赦により釈放される。帰県後,鹿児島新聞社を創立。公友会を興し,のちに九州改進党鹿児島支部となる。のち共同運輸会社の役員となり,同21年没す。年43歳。


 

朝鮮出兵島津勢虎狩絵巻

No. 119
タイトル 辺見十郎太書掛軸「保民耐利主・・・」
著 者 名 辺見十郎太
出 版 年 不明
出 版 者 不明
出 版 地 不明
種  別 不明
請求記号 K72ヘ
大 き さ 132.0×25.0(57.5×12.0)

 

辺見十郎太(へんみ じゅうろうた)嘉永2(1849)~明治10(1877) 別名昌邦。辺見仲太の長男で嘉永2(1849)年上荒田町に生まれた。小さい時両親をなくし,いろんな苦しいこと,つらいことを味わったため,勇猛心をふるいおこし,戊辰の役の時,わずか18歳で小隊長として(小銃二番隊小隊長)戦いに出た。鳥羽・伏見から奥羽まで各地で戦い立派なてがらをたてた。明治4年,近衛陸軍大尉に命ぜられたが,明治6年職をやめて西郷隆盛について鹿児島に帰りひたすら私学校のために努力した。明治8年には宮之城の区長となった。西南の役には初め薩軍の三番大隊一番小隊長となって熊本城攻囲軍に加わった。しかし一時兵士を集めるために鹿児島に帰り,まもなく薩軍がその編成を改めると雷撃隊長となって各地で奮戦し,その強いことは広く知られた。8月17日薩軍が可愛嶽を突破することになった時,その先頭の大将として非常に困難と思われる敵陣を打ち破り,9月1日に鹿児島の城山に入り9月24日他の多く の諸将と共に戦死した。ときに29歳。
十郎太は生まれつき,赤ら顔で目が鋭く,ほおのひげあごのひげはみんな赤く,その声は雷のように大きく,十郎太が戦いにでると,その鋭く,たくましく,勇敢なことは,向かうことができない程強く,西南の役の時は最も勇名を知られた薩軍の代表的な武将であった。しかし,反面人と交際する時は道理を守り職務にまじめでよく精勤した。宮之城の区長であった時代の政治の実績は高く評価されている。

ページの先頭へ戻る