『薩摩の海将・陸将-日露戦争から100年』

『薩摩の海将・陸将-日露戦争から100年』

 

 

資料名 東郷平八郎書
形状

 

東郷平八郎(とうごう へいはちろう)
弘化4(1847)年12月22日鹿児島城下加治屋町に生まれる。海軍大尉小倉壮九郎の弟。幼名仲五郎。薩英戦争に16歳で初陣。戊辰戦争では春日に乗り組み,宮古湾・函館沖海戦に参加。明治3(1870)年海軍に入り見習い士官。明治4年イギリス留学,テームズ海軍訓練学校に入る。西南戦争で兄,壮九郎が薩軍に加わり戦死する。明治11年新造艦「比叡」で帰国。7月中尉,8月大尉,翌年12月少佐となる。明治16年第二丁卯艦長,明治17年天城艦長となり,清仏戦争視察のために,揚子江を遡り漢口に至った。明治21年奏任一等の大佐となり,以後比叡,浅間,浪速の艦長となる。明治26年ハワイの政変に,日本居留民保護に任じた。明治27(1894)日清戦争では豊島沖海戦で清艦を撃破,清兵を載せたイギリス汽船を撃沈して,朝野を震駭させた。その後,黄海海戦,威海衛攻撃に活躍。明治29年海軍大学校長兼海軍技術会議議長,明治33年常備艦隊司令長官となり,北清事変で清国に出動した。翌年舞鶴鎮守府司令長官となっていたが風雲急をつげる明治36年連合艦隊司令長官となり明治37(1904)年日露戦争で旅順のロシア艦隊をくり返し攻撃して全滅させた。その間,6月大将となる。明治38年5月ロシアバルチック艦隊を朝鮮海峡で捕え,戦艦6隻を含む19隻を撃沈,戦艦2隻を含む5隻を捕獲する大戦果をあげた。戦後,軍令部長となり,明治42年軍事参議官,大正2年元帥となる。大正3年より7年間,東宮御学問所総裁となり,昭和9年5月30日没,国葬には100万人が参加。侯爵,従一位,菊花章頸飾が与えられた。

出典:『鹿児島大百科事典』

 

 

 

 


  

資料名 上村彦之丞書
形状

 

上村彦之丞(かみむら ひこのじょう)
海軍大将,男爵。
嘉永2(1849)年5月1日,鹿児島城下平之町に生まれる。父藤一が加世田に赴き漢学を教えたので,少年期を加世田で送る。戊辰戦争に従軍したのち,明治4(1871)年に海軍兵学校に入る.。明治27(1894)~28年の日清戦争では,少佐で豊島沖・黄海海戦,威海衛占領に参戦,明治37(1904)~38年の日露戦争では,中将で第二艦隊を率い,蔚山(うるさん)沖海戦でウラジオストック艦隊を破り,その折,海中に漂うロシアの将兵627人を救助した。この敵兵救助は,日本武士道の精華として広く世界に伝えられた。戦後,横須賀鎮守府長官,第一艦隊長官,明治43(1910)年大将,翌年軍参議官を経て,大正3(1914)年後備役に編入。従二位に叙せられ,大正5(1916)年8月7日,鎌倉で没した。日露戦争の功で男爵を送られた。

出典:『鹿児島大百科事典』

 

 

 

 


  

資料名 大迫尚道筆
形状

 

大迫尚道(おおさこ なおみち)
嘉永7(1854)年~昭和9(1934)年。陸軍大将。鹿児島市生まれ。
陸軍士官学校(旧2期) 卒業。のちドイツに留学,駐独公使館付武官。日清戦争では,野砲第一連隊大隊長,第一軍参謀として従軍。日露戦争では第二軍参謀長として沙河,黒溝台,奉天会戦などの作戦指導に当たった。のち第十八,第四各師団長,軍事参議官などを歴任。大正4年大将。退役後は救世団を組織,愛国心かん養につとめた。兄・尚敏(第七師団長,二百三高地攻略)とともに兄弟大将として知られる。

出典:『鹿児島大百科事典』