『斉彬と久光・忠義の時代』

『斉彬と久光・忠義の時代』

 

 

 

資料名 島津久光公御筆「従軍北征」

                              形状  軸
 

                                 首 征 笛 天
                                 月 人 偏 山
                                 中 三 吹 雪
                                 看 十 行 後
                                 萬 路 海
                                 一 難 風
                                 時 磧 寒
                                 回 裏 横

                                 島津久光

1817年~1887年。第29代薩摩藩主忠義の父。斉彬の異母弟。本名は初め忠教・邦行,のち久光と改めた。幼名は普之進,次に又次郎,山城・周防・和泉・三郎と称し,大簡・双松・頑固道人・無松翁などの号がある。斉興の第五子として,鹿児島城に生まれる。生母は斉興の愛妾お由羅である。若くして重富島津家の養子となり,学問を好み,和漢の史籍に通じていた。弘化年間(1844年~1848年)外国軍艦が琉球を中心に来航するようになると,久光は軍事面を担当し,嘉永元(1848)年には藩政に参与した。安政5(1858)年斉彬の遺命によって久光の子忠義が藩主となり,翌年父の斉興も没すると,久光は忠義のもとめに応じて本家に復帰した。久光は国父とよばれて,藩政の実権を握り,忠義を後見した。さらに大久保利通などの精忠士とともに,斉彬の遺志を継ぎ,中央政界への進出を志し,文久2(1862)年兵を率いて上京した。寺田屋で有馬新七などの過激派の志士を弾圧して,勅使大原重徳を奉じて江戸に下り,幕政の改革に成功した。この年,久光は西郷を龍郷から帰国させ,率兵上京に先発させたが,西郷は下関で待てという命にそむいて大阪に向かった。久光はこれに激怒し,西郷を山川港に護送の上,徳之島,さらに沖永良部島に流罪に処した。久光は,江戸からの帰途生麦事件を引き起こし,翌年の文久3年薩英戦争になったが,イギリス艦隊をよく撃退した。8月の政変後も,公武合体運動を進めて,朝議参与となったが,永続せず帰国した。元治元(1864)年西郷を沖永良部島からよびもどし禁門の変や第一次長州征伐に尽力させた。これ以後は,西郷・大久保を中心に,薩摩藩は長州藩と同盟を結んで,倒幕路線を歩んだ。維新の諸改革が行われると,久光はこれに内心不満を抱いた。西郷の下野後,大久保によって内閣顧問に任ぜられ,翌年左大臣に任命されたが,保守的な傾向が強く,明治8年辞任して郷里鹿児島の玉里邸に隠退した。同20年12月6日病死し,国葬によって福昌寺に葬られた。

出典:『鹿児島大百科事典』

 

 

 

 


 

 

資料名 島津忠義公御筆「乕」

                              形状  軸
 

島津忠義

天保11(1840)年~明治30(1897)年,明治維新第29代薩摩藩主。 名を初め忠徳,ついで茂久・忠義といい壮之助・又次郎・修理大夫と称し,城下重富邸で,島津久光の長男に生まれる。安政5(1858)年12月藩主となり,一年近くは祖父斉興の補佐をうけ,その後は父久光の後見により藩政を行った。安政の大獄の進行に伴い,大久保利通など同志40余人が脱藩義挙の計画を立てたのを聞き,翌安政6(1859)年,彼らに自筆の諭書を与えた。彼らを精忠士と呼び,尊王の深意を告げて,人事を刷新し,藩の危機を乗り越えた。斉彬の遺志を継ぎ藩政改革と陸海の軍備充実に努めた。文久2(1862)年の久光の率兵上京,幕政改革,生麦事件と薩英戦争に,藩を挙げて行動した。禁門の変による第一次長州征伐に,福岡藩まで兵を出し,三条実美など五卿の大宰府護衛にも努めた。また,薩英関係を改善して五代友厚などによる留学生を派遣し,イギリスから紡績機械を購入して,磯に日本最初の紡績工場を起こした。パリ万国博覧会には,薩摩琉球国の名前で,幕府と対等に出品した。慶応2(1867)年,討幕の密勅が下るや,大兵を率いて上京し,王政復古に努力。翌年の鳥羽伏見の戦いで幕府を破り,関東・東北の戦いに官軍の主力として活躍した。ついで版籍を奉還して,鹿児島知藩事となり,廃藩置県により知事をやめ,のち貴族院議員となった。1897年12月26日に没し,国葬により城下常安墓地に葬られた。

出典:『鹿児島大百科事典』