『琉球の書道家(鄭嘉訓,鄭元偉)と歌人宜湾朝保』

『琉球の書道家(鄭嘉訓,鄭元偉)と歌人宜湾朝保』

 

資料名 鄭嘉訓書
形状  巻物
 

鄭嘉訓,よび名を古波蔵(こはくら)親方といい,琉球の人である。宝暦(1756)年那覇の松崎原に生まれ,泰橋又は松崎山人と号した。幼少の頃から書に巧みで,清国に遊学7年,謝犧(字体が違うので確認してください)に筆法を学ぶ。用筆遒勁米?(べいふつ)の風あり,近世書家の魁(さきがけ)と称賛された。島津家に招かれて諸士に書を教え代々の藩主の寵遇を受けている。当時磯の別邸では,床の掛軸をはじめ額面,屏風の類に至るまですべて嘉訓の書であったが,今は一つも残っていないという。没年不詳。

出典:『薩摩の国学』

 

鄭嘉訓(てい・かくん)

1767~1832。19世紀初期の沖縄の代表的な書家。久米村に生まれる。古波蔵親方(こはぐらウエーカタ)。名は爾方(じほう)。号は泰橋(たいきょう)。鄭氏家譜によると,1791年25歳のとき,御右筆相付役となり,96年から2年間読書習礼のため,中国福州で学ぶ。中国への旅は,謝恩使に随行し,あるいは進貢使として行ったことを合わせると3度あった。そのうちでも1806年尚灝王(しょうこうおう)即位の謝恩使の江戸上りに儀衛正として随行したことは,中国旅行に匹敵する大旅行であった。これらの鹿児島行きを通じて,書家として認められ,16年には,島津候の招聘を受けることとなり,1年半鹿児島に滞在して,藩士の書道指導に当たった。その年,紫金大夫となり,紫冠を頂き,24年58歳のとき久米村の最高官である総理唐栄司(久米村総役)となった。書は,現在も沖縄ばかりでなく鹿児島にもたくさん残っており,行書や草書体のすぐれた書法を見ることができる。

出典:『沖縄大百科辞典中巻』

 

 

 

 


 

 

資料名 鄭元偉書
形状  軸
 


 出典:『薩摩の国学』「薩摩書人伝稿」,昭和61年

 

 

 

 


 

 

資料名 宜湾朝保和歌書
形状  軸
 

宜湾朝保(ぎわん ちょうほ)1823年3月5日~1876年8月6日(尚灝20~明治9)三司官・歌人。
唐名は,向有恒(しょうゆうこう)。松風斎と号す。父の向延楷(ていかい)・宜野湾(親方)朝昆(ちょうこん)(?~1835,盛島親方とも称する)も,三司官を務めている。朝保は三男であったが,兄たちが早死にしたため,父の死後わずか13歳で家統を継ぎ宜野湾間切総地頭となる。そのご各職を歴任し,52(尚泰5)年に日帳主取(ぬしどり),2年後に鎖之側(さすのそば)に昇格している。56年,その職のまま進貢使となって中国へ渡り,58年5月に帰国,6月にはその報告のため薩摩へ上国し,翌年3月に帰国している。そのあいだに<斉彬(せいひん)崩れ>を経験,その影響はやがて王府内部にも及び,<牧志・恩河事件>へ発展する。朝保は職責上,また薩藩の歌友との関係からも斉彬派と目されるが,かえって斉彬派に不利な証言を準備し,加増糺明(きゅうめい)奉行に加わり,王府の主流にとどまって62年5月には三司官に任命される。68年に明治政府が樹立し,廃藩置県がなされたときは,維新慶賀使の副使(正使は伊江朝直)として上京,尚泰王を琉球藩王に封ずるという命を受けて帰る。このことは,当初,薩摩支配からの脱却を意味するものと受け取られ,朝保は優遇されたが,琉球処分の断行で非難が集中し,75年には辞任,翌年不遇のうちに死んだ。朝保は近世沖縄最大の歌人でもあり,香川景樹(かげき)の桂園派に属し,八田知紀(とものり)に師事,樺山資雄や税所敦子らとも交わりを結んでいる。在番奉行福崎季連と提携して大いに歌道をおこし,<門人無慮数百人>といわれた。『沖縄集』『沖縄集二編』を編み,私家集には『松風集』がある。上京のとき吹上離宮御歌会で詠んだ歌に,<水石契久>と題して<動きなき御世を心のいはかねに かけてたえせぬ滝の白糸>がある。

出典:『沖縄大百科事典』上巻