『短歌王国鹿児島』

『短歌王国鹿児島』

 

 

資料名 八田知紀翁肖像写真
形状 写真
 

八田知紀
寛政11(1799)年~明治6(1873)年。鹿児島市西田に生まれる。国学に志し和歌を香川景樹に学び桂園派歌人として名をなした。薩摩藩京都留守下役を命ぜられ近衛家に出入りした。明治5(1872)年宮中御歌掛に任ぜられる。桃岡と号し高崎正風,黒田清綱ら著名な歌人を育成,著書に『八田知紀歌集』『しのぶ草』『調の直路』などがある。雅麗な桂園調の中にも雄渾な歌風を持つ。「いくそたびかき濁しても澄みかへる水やみ国の姿なるらむ」

出典:『鹿児島大百科事典』

 

 

 

 


 

 

資料名 税所敦子書
形状 軸
 

税所敦子

文政8(1825)年~明治33(1900)年。京都に生まれ本姓は林。幼児より和歌を好む。20歳で薩摩藩士税所篤之に嫁ぎ28歳で夫を失い薩摩にある姑のもとで孝養をつくした。島津斉彬に認められ世子の守役となり,のち島津久光の女光子が近衛家に嫁いだとき侍女となって京都に赴く。明治8(1875)年高崎正風に推され宮中に入る。従五位掌侍。歌集に『御垣の下草』『御垣の下草拾遺』がある。「衣手に一ふさかけて山吹のつゆもたがはぬ時を知るかな」

出典:『鹿児島大百科事典』

 

 

 

 


 

 

資料名 黒田清綱翁郭公和歌(馬上聞時鳥)
形状 軸
 

黒田清綱
天保元(1830)年~大正6(1917)年。鹿児島藩士黒田清直の長子,幕末国事に奔走,明治元(1868)年山陰道鎮撫総督府参謀,翌年,翌年鹿児島藩参政を経て教部少輔,元老院議官などを歴任,子爵,のち貴族院議員,枢密院顧問官となり宮内省御用掛を兼ねる。八田知紀に和歌を学び明治大正両天皇のお歌所の一人として活躍した。瀧園社を開き子弟を育てた。遺書に『瀧園歌集』がある。画家黒田清輝は,その養子。「漕ぎいでて遠つ近江の灘ゆけば雲の波間に富士の山見ゆ」

出典:『鹿児島大百科事典』