『薩摩の武道』

『薩摩の武道』

 

資料名 示現流書目録
形状 巻物
 

示現流(じげんりゅう) 薩摩独特の剣術で,東郷藤兵衛肥前守重位を流祖とする。重位は初め待捨流を学びその極意に達したが,藩主に従って上洛したとき,京都萬松山天寧寺の僧善吉から天真正自顕流を学び,天正16(1588)年その秘訣のすべてをうけた。薩摩に帰ってから重位は,自宅の立木・生木を相手とし,樹のすべてを打ち枯らして心技を練ること3年,待捨流と自顕流の精髄を総合渾和して独特の剣術を創始した。藩主家久はその名を聞き,藩の剣術師範役である待捨流の東小太郎との立ち合いを命じたが,重位はこれを倒した。慶長9(1604)年2月,年44歳。家久は重位を藩の剣術師範役に任じた。重位は雌雄を決する勝負,前後47回あり,だれも敵するものがなかったという。のち家久は名僧文之と語らい,法華経の「示現神通力」の言葉からとり,「御流儀示現流兵法」と称し,門外不出とした。以来一子相伝,その形・掟は現在第11代重政まで約400年,そのままの姿で伝承されている。東郷家に伝わる初代からの古文書は,昭和34(1959)年,県の有形文化財に指定された。また,野太刀自顕流は,示現流初代東郷重位の高弟の一人で,薬丸刑部左衛門兼陳が流祖である。当時薩藩では他流は禁ぜられ,約100年間,示現流のみで,薬丸家6代目までは示現流の門弟であった。野太刀自顕流は,薬丸家伝の野太刀に示現流をあわせ,実践的に編み出されたというが,その形・掟がいつごろ出来たかは定かでない。7代目のころから野太刀自顕流と名のって,示現流と別個なものになったものである。

出典:『鹿児島大百科事典』

 

薬丸半左衛門(やくまる はんざえもん)
文化2(1805)~明治11(1878)年。薬丸自顕流第8代師範。兼武の嫡子として城下新屋敷に生まれた。天保6(1835)年家督を継ぐ。家格は小番。安政元(1854)年当務精勤につき代官役に任ぜられた。半左衛門は天性謹厳剛毅であって薬丸流の奥義をきわめた。門弟には有村次左衛門・奈良原喜左衛門・大山綱良・篠原国幹・東郷平八郎ら幕末維新に活躍したものが多い。

出典:『鹿児島大百科事典』

 

 

 

 


 

 

資料名 東郷示現流目録 初段〜四段
形状 巻物
 

絵は心不去不来(示現流礒月の構え)である。

初段から4段までの目録である。

 

初段 左臂切断(臂=ひじ)

 

この題名の出所は禅宗の始祖,達磨大師が嵩山の少林寺で9年間,面壁座禅の修行をしていたとき,弟子の慧可が仏道の悟りを開こうとして,自分の臂を切断して誠を示した故事にちなんだものである。

 

「立」の打法
「立」の構えは形の上からみても「立」の姿をしている。二尺前後の刀でも,一尺三寸前後の短刀でも「立」の構えで刀を抜くときは,手のひらは教則の通りに握り,右手の親指のつけ根の骨のところできつく押さえるように握り締め,刀の鯉口(こいぐち=刀のさやの口)を二,三寸引き割るようにして垂直に抜き放つのである。このようにして刀を抜くのは,刀の切っ先から抜けるようにするためで,抜き終わった形は縦に一直線になるものである。

 

「双」(雙)の打法
「双」とは敵と対等の位置と形にあるという意味である。双方ともに蜻蜒(とんぼ)の構えで太刀を持ち、 そのまま切り込めば相打ちになる形である。この打法の特徴は、動揺した相手を打つことである。「双」の打法をよく悟り、よく知って、左右の肱を曲尺形にして相手が自分の左肱を打ち込むように仕向けると、相手はその意図を知らないので、空を切った後であっと気づいて動転し、自分を打ちつけようと太刀 を振り上げる。その隙を突いて相手の肱を切り落とす打法である。相手はまた、蜻蜒の構えで太刀を振り上げる。その時にできる相手の肘の隙をねらって打ち込むのである。

 

「越」の打法
「越」の技は未来蜻蜒の構えから,打ち出すべきところを打ち出さず,足は踏み止まらず常に前に動かしていく。右の拳(こぶし)は動かさず,左肘を引き引き,相手の左右手首あたりを切断するのである。刀を引くときは右手の付け根の辺りを打つように引くので,竪(たて)に打たず,横に打ち付けるところが肝要である。

 

二段 横指横切

 

示現流以外の流儀では,通常柄持ちは,左右掌,大指,人差指との間で握るのである。しかしこのような握り方は万変に応じることができない。これに対し横指横切は万変に応じることができるのである。

 

「寸」の打法
「寸」のきまりは柄を握った左右の手首を胸につけ,太刀の鍔(つば)をあごから二寸程離して,太刀を真っすぐに持つのである。足は基本の構えで狭く踏み揃え,体は立ったまま,両足を敵の方に向けて右足を踏み込んで左足のかかとを離さず,足先を回して,柄は胸から離さず,すり上げ振りかぶって左脇の腰の骨に手が触れるように,太刀を振り下ろして相手の太刀の鍔元を打つのである。

 

「満」の打法
「満」の打ち方は,敵との距離をすばやく飛び込んで縮め,太刀を打ち出す時は,体をまっすぐにして右足を踏みきって先に進んだ左足を踏みそろえるまで飛び込んで打つのである。

 

「煎」の打法
「煎」は「寸」「満」の段階より劣り,敵も自分と同じ段階である。双方蜻蜒に持ち,構えて相打ちに打ち合う境地である。相打ちの段階で相手を倒すのは難しいが,意地と技の修行を積めば,敵の左拳を切断し,容易に敵を打ち倒せるものである。

 

三段 磯月(そげつ)

 

月夜の波が磯にはたと打ちあたり,あっと思う時は月影も見えず心には何もない。このことは無念無想になったことであるから,太刀はこのような時に打つべきである。

 

「平」の打法
兵法の平の心持が大切である。磯月の,きはわりのがれざる所を思っていかにも,やすやすとはたはたと打つことである。平の心持の太刀は前にひきく,横にもって,つい立って打出せば,はたはたと留めることができる。

 

「安」の打法
安とはやすらかの意味であり,平の心得と同じである。太刀を何となく振上げて少しも支障なく,先へ先へと打ち,敵の太刀の動くところを一刻も早く,やすやすと何回でも打ち当てる心得である。相手が太刀を出さぬうちに早く打つことが大切である。

 

「行」の打法
太刀を振上げて左,右,真中からもはたはたと打つことができる。これもするすると支障なく先へ行く足であるので行と名づける。油断なくさらさらとはこぶ歩みである。このようにすれば敵は応ずることができないという。

 

四段 雲耀

 

雲耀というのは雲が輝くと書き,雲にいなびかりがすることである。ぴかぴかする時に世界中に光を放つ,天と地を分け隔てなく一瞬のうちにひかり渡る。この早さは言語に言い尽くせない。三段までは強くて,早い味を述べたが四段では更にその上の早い味を述べるために雲耀と名づけた。

 

「軽」の打法
軽いといえば早く,つよく打ち当てるべき味であるという。文字通り横にもち,雲耀の味同様に敵が動くところをすぐに打つ。

 

「道」の打法
過去と未来の間を中有という。仏教では対立した二つを離れた不偏にして中正な道をいう。ここでの道は刀を抜き出してふり上げずに中より打ち出す間を道といい,太刀の持ちかたは,はらい打のかまえであり,敵の打出をかまえのまま,早く,強く,敵のこぶしをはたはたと打つことである。

 

「真」の打法
真というのはまことである。これの打つ様は太刀を右の肩にふりかたげもって,何となくゆるゆるともち,打つ時せいを入れて,はたはたと打つ,これの打つ様は真の打である故になかなか,おおかたに打っては真の字に相違する。刀を入れまことを出して大地の底までも打ちくだくべきと思い入れて打つべきである。

 

出典: 『かごしま文庫21 示現流』,『示現流聞書喫緊録』 鹿屋体育大学 平成10年

 

 

 

 


 

 

資料名 東郷重持弓術図
形状 絵・絵画等
 

薩摩の弓術日置流は,島津家久が宇喜多秀家の家臣本郷伊予守義則を師として弓術を学んだことに始まる。東郷長左エ門重尚は本郷義則の門に入り射術秀逸と評判を取ったので鹿児島に呼び,射術の相手とした。義則の病没後に,家久は重尚を従え上洛し,日置弾正忠正次の正統を伝える吉田一水軒印西に重尚を入門させ,奥義を学ばせた。ここで薩摩弓術の師範役を命ぜられた。よって薩摩日置流の始祖は家久にして,その射術の妙所を後世に伝えたのは重尚である。 東郷重持に至るまで9代二百余年の間,弓術の師範役として藩主の指南を勤め,藩内幾十万の  門弟を養育した。
また,明治時代になり,東郷重持は,吹上御苑及び袖ケ崎公爵島津邸において腰矢数矢及び貫徹の射術を展覧に供し奉った。

出典:『薩摩日置流管見』