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『西南戦争錦絵』1

 

 

資料名 西南役関係錦絵 鹿児島暴徒出陣図
形状 錦絵
 

この錦絵は,明治12年に福田版元から絵師大蘇芳年の手により刊行されたものです。 錦絵の内容は,「頃は明治10年2月中旬鹿児島の士族暴発し其の勢凡そ1万有余,総大将西郷隆盛,副将篠原,桐野を始め村田,辺見,池上其の他の隊長伍列を正し,三太郎峠の雪ふみ道を岐して正奇の両軍熊本へ繰り出す勢い最も広大なりしと」とあります。
西南戦争錦絵は,西郷軍を賊軍・逆賊と書いていますが,錦絵の主人公はあくまでも西郷軍です。これは厳重な検閲制度を通過するためのもので,当時の庶民の人気は西郷軍にあったようです。

出典:『鹿児島女子短期大学紀要第17号』「西南戦争錦絵について」昭和57年,『西郷隆盛写真集』

 

 

 

 


 

 

資料名 西南役関係錦絵 鹿児島城激戦ノ図
形状 錦絵
 

この錦絵は,明治10年9月に大倉版元から絵師楊洲斎周延の手により刊行されたものです。 錦絵の内容は,可愛岳越えで官軍包囲網を突破した西郷軍が,鹿児島に突入した様子を描いた場面です。当時,新聞が伝える情報がすべてで,絵師はそれをもとに想像していたようです。
この錦絵では,中央に「篠原ノ妻女」,その横に「淵辺ノ妻」と説明があります。女性を奮戦させていますが,浮世絵師は美人画を描くのが得意で,錦絵に美しい色彩をあたえる意味からも彼女らの活躍は必要だったようです。本館には絵師楊洲斎周延の作品を34点所蔵していますが,No.18鹿児島再戦,賊徒侵入図で「篠原の妻」「桐野の妻」を,No.21鹿児島暴徒女隊勇戦図で5人の「勇婦」を登場させています。
このように女性を活躍させているのは,5月30日及び31日の東京曙新聞掲載の「鹿児島の女隊が官途(かんと)にある人々の鹿児島にある邸宅をうちこわした」記事を裏付けにして広汎な女隊軍に発展したのだと思われます。なお,この新聞記事は事実であり「大久保・川路等の家破毀」とあり,大久保・川路の外にも「奈良原幸五郎(繁,喜八郎)・樺山資紀等の宅」も破壊したと当時の鹿児島の記録に出ています。錦絵の内容は新聞記事によるものが多いので,その新聞記事の内容が事実であるかどうかによって,錦絵の内容が事実であるか,虚構であるかがわかれますが,残念ながら虚構の場合が多いようです。
出典:『鹿児島女子短期大学紀要第17号』「西南戦争錦絵について」昭和57年

 

 

 

 


 

 

資料名 西南役関係錦絵 鹿児島戦闘記
形状 錦絵
 

この錦絵は,明治10年6月に浦野版元から絵師山崎年信の手により刊行されたものです。 錦絵の内容は,桐野利秋と野津鎮雄少将の一騎打です。これは数点見られる図柄です。当時,新聞が伝える情報がすべてで,絵師はそれをもとに想像していたようです。これも「古武士の俤(おもかげ)を其のまま桐野と野津の応酬」とある当時の新聞記事を活用して書きあげたものと思われます。錦絵の内容は新聞記事によるものが多いので,その新聞記事の内容が事実であるかどうかによって,錦絵の内容が事実であるか,虚構であるかがわかれますが,残念ながら虚構の場合が多いようです。
出典:『鹿児島女子短期大学紀要第17号』「西南戦争錦絵について」昭和57年