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『集成館事業と近代日本』

 

 

 

資料名 旧鹿児島藩主以下薩隅日三州出身諸公の肖像
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資料名 島津順聖公書御幼年御筆「瑶臺」
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島津斉彬
文化6(1809)~安政5(1858)年第28代薩摩藩主。幼時から将軍家斉の岳父である曾祖父重豪に寵愛され指導された。優れた偉材であったので,藩の内外から藩主となることを期待されていた。しかし父斉興の重臣および側室由羅らが,その子久光を継嗣にしようとの動きがあり,斉彬の襲封は実現しなかった。高崎崩れ(お由羅騒動)後,斉彬の危機を知らされた大叔父黒田斉溥らの斡旋で斉興が隠居し,43歳で襲封した。国事多難の時期に藩内をまとめ,富国強兵策を率先し強力に実行した。政策は多方面にわたるが,特筆すべきものは科学的事業と洋式造船事業である。反射炉の建設は困難だったが「西洋人も人なり,佐賀人も人なり,薩摩人も同じく人なり,退屈せずますます研究すべし」と励まし,成功させた。西洋式軍艦昇平丸,蒸気船雲行丸などの造船をおこなった。篤姫を将軍家定夫人として,幕府に対する発言力を強め,病弱の将軍家定の継嗣問題が起こると,松平慶永らと共に徳川斉昭の子一橋慶喜擁立の運動をすすめた。井伊の大老就任により形勢不利になった情況を朝廷を擁して幕府を改革しよう,そのためには斉彬が機を見て薩摩の精鋭を率いて上洛する,その日に備えて城下天保山の調練場で7月の炎天下に練兵を指揮していたが,急病となりついに逝去した。安政5(1858)年7月16日,50歳(満48歳10カ月)。斉彬が藩主であった期間はわずか7年半(生涯を通じて鹿児島にいた期間は4年半)に過ぎなかったが,斉彬の影響は大きかった。遺志は「順聖院様御深意」として引き継がれた。薩摩藩が幕末の政局を指導し,明治維新の原動力たり得たのは斉彬によるところが極めて大きい。斉彬は城山の麓の照国神社に祭られ,多くの県民の心の中に今も生きている。

出典:『鹿児島大百科事典』

 

 

 

 


 

 

資料名 中原猶介写真
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中原猶介(なかはらなおすけ)

天保3(1832)年~明治元(1868)年名は尚勇,鉄心斎と称した。城下上荒田生まれ。少年のころより蘭学 を自習していたが,藩命により長崎に出張,オランダ人に蘭学を学んだ。斉彬に用いられ反射炉築造や軍艦製造に従った。斉彬の死去後と文久元(1861)年と二度にわたり江川太郎左衛門塾に学び塾頭に昇り塾生を監督教授するに至った。薩英戦争の時には長崎で病臥中であったが,禁門の変には軍賦役となり大砲隊長として功を立てた。慶応2(1866)年長州再征の時には長崎にあって長州藩の軍艦兵器の購入を斡旋した。翌年2月英国公使訪薩に当たっては接待役となり実弾演習を行った。明治元(1868)年鳥羽伏見に戦い,3月海軍参謀を命ぜられたが病気のため一時帰郷6月再び出発,越後長岡城攻撃に参加,河井継之助の逆襲をうけ,右脚に弾丸をうけ,柏崎病院で没した。甲南高校庭に誕生碑がある。

出典:『鹿児島大百科事典』