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『城下絵図~伊集院,高城,出水,大口,加治木~』

 

 

資料名 薩藩御城下絵図(伊集院)

                             形状  軸
 

薩摩藩は特有の地方組織を持っていた。その一つが外城制度である。外城とは,鹿児島本城(鶴丸城)に対する支城の意味で防衛拠点としての意義を持っていたが,慶長20(1615)年の一国一城令により外城は廃止された。外城に住んでいた武士は外城衆中と呼ばれ,伊集院の武士は伊集院衆中と呼ばれた。安永9年外城が郷と改められ,衆中は「郷士」と呼ぶようになり,鹿児島に住んでいた武士は「鹿児島衆中」から「城下士」に改められた。
他藩では住民のうち武士の占める割合は6%に過ぎなかったが,薩摩藩では30%を越えていた。これは薩摩藩が全九州を平定しようとするころ多数の武士を必要とし,豊臣秀吉に破れ三州の領土内に圧縮された後も武士として残されたからと言われている。
他藩では武士はほとんど城下に住み,藩主から支給される知行米によって生活したが,薩摩藩では各外城に在郷家臣である郷士を配置した。郷士は農工に従事して,自らの生活を営むかたわら,地方の行政及び治安に当たり,一朝事あるときは武士として出陣する。そのため薩摩藩では,他藩に見られない膨大な軍隊を編成することができた。
このことは,明治維新の際に其の真価を発揮した。
外城の数は廃置分合がしばしば行われたが延享元(1744)年には113外城であった。各外城(郷)には麓と呼ばれる地域があり,郷士の中心的居住地域であった。郷の行政の中心役所として地頭仮屋が置かれていた。伊集院郷の地頭仮屋は,現在の伊集院小学校の敷地内にあった。
出典:『伊集院町誌』「2外城制度と伊集院郷」平成14年

 

 

 

 


 

 

 

資料名 薩藩御城下絵図(高城)

                               形状  軸
 

慶長4年それまで殿領(豊臣秀吉直轄地)であった高城郡は慶長の役の戦功によって島津忠恒(家久)に返還され,以後島津義弘夫人(忠恒の母)の湯沐の地として,押川強兵衛公近を代官として統治し,慶長18年になって外城成立(川内市史)。江戸初期当郷は湯田・西方・大川・高城上・高城下・麦之浦・網津・草道・水引・千台宮内・千台大小路からなる。地頭仮屋は高城下之村(麓村)中央部の妹背城(高城古城)下に置かれ,周辺に麓が形成された。
寛永6年網津・草道・水引・宮内・大小路が水引郷として分立,大川も阿久根郷に入る。
出典:『角川日本地名大辞典46鹿児島県』「髙城」

 

 

 

 


 

 

資料名 薩藩御城下絵図(出水)

                               形状  軸
 

寛文年間に作製されたとものと推定される出水最古の「出水外城図」の中に,五代地頭町田勘解由の仮屋を明記してある。またこの古地図は,平松番所(野間関)や国境線に配置された郷士の駐屯地,麓の郷士居住地,その他,河川,耕地の存在などを示す重要な資料である。

出典:『出水郷土誌』昭和43年

出水は,薩州島津家領,豊臣秀吉直轄領を経て慶長4(1599)年ごろに藩直轄地として成立。麓を中心に「出水十ケ外城」が置かれたが,17世紀中ごろ野田,長島が分立して8か郷となる。この絵図は17世紀後半の様子を示しており北側には平松(野間原)番所や米ノ津津口番所が見える。また17世紀前半に麓には100石取以上の郷士が10余人いたが,これは高岡郷に次ぐ人数である。

出典:『黎明館企画特別展 薩摩七十七万石-鹿児島城と外城-』

 

 

 

 


 

 

資料名 薩藩御城下絵図(大口)

                               形状  軸
 

 

 

 


 

 

資料名 薩藩御城下絵図(加治木)

                             形状  軸
 

寛文年間(1661~1672)の様子が描かれている。中世加治木城の南側平地に領主仮屋が置かれ,周囲に郷士屋敷,南に浦町があった。

出典:『黎明館企画特別展 薩摩七十七万石-鹿児島城と外城-』