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『幕末の薩摩~お遊羅騒動の背景~』

 

 

資料名 島津重豪公御幼少之筆

                              形状  巻物
 

島津重豪(しまづ しげひで) 延享2(1745)年~天保4(1833)年

島津家第25代。幼名を善次郎,元服して兵庫久方,のち松平又三郎忠洪(ただひろ),襲封後重豪と改めた。号は南山・懋昭(ぼうしょう)。重年の嫡男。鹿児島に生まれる。藩政を継いだのは宝暦5(1755)年。木曽川治水工事竣工の翌年,工事費調達のための負債22万両を加え,藩債は88万両に達していた。このため徹底した緊縮政策をとり,藩主みずから一汁一菜に改めるなどその範を示したが,たび重なる凶作や江戸藩邸火災にも災いされてその実は上がらなかった。かれは進取の気性に富み学問好きであったことは有名で,歴代オランダ商館長や商館医シーボルトと親交のあったことでもわかる。この性格がかれの積極的開化政策の推進力となった。まず安永2(1773)年藩学造士館・武芸練習場演武館を,翌安永3年医学館を設立した。ついで安永8年には明時館(めいじかん,天文館)を設置し薩摩暦を発行した。また,かれの庇護した学者の協力をえて『南山俗語考』をはじめ『琉球物産志』『質問本草』『成形図説』『鳥名便覧』など学問上有益な書物を編纂した。このほか,「繁栄方(はんえいほう)」を置き大いに上方風(かみがたふう)をとり入れ薩摩に新風を吹きこませた。そして三女茂姫の嫁した一橋豊千代が将軍(11代家斉)となった天明7(1787)年それをはばかって隠居した。将軍の岳父重豪の権威は高く,高輪藩邸を訪れるものあとたたず高輪下馬の世評があり,開化政策の出費とあいまって財政を破局に追いこんだ。襲封した斉宣(なりのぶ)は重豪の政策が加重した財政難を克服するため,樺山主税・秩父季保(すえやす)を家老に任じ徹底した緊縮(復古)政策を断行した。自分の理想と政策を否定された重豪は烈火の如く怒り,斉宣を隠居,樺山・秩父ら切腹以下16人に達する大処分を行った。これが世にいう「近思録崩れ」(文化朋党事件・秩父崩れ)でその一党が近思録心酔者であったことからこの名がつけられた。このあと重豪は藩主斉興(なりおき)を介助し,財政改革を調所広郷に託すのである。…

出典:『鹿児島大百科事典』

 

 

 

 


 

 

資料名 賢章院様御歌一首

                               形状  軸
 

賢章院は,島津斉彬の母。鳥取藩主池田家の出身。彌姫。27代島津斉興にとつぐ。斉彬は長子。賢章院夫人は,将来島津家を継ぐべき斉彬の訓育に極めて熱心であり,斉彬はこの母の影響を強く受けた。…

出典:『鹿児島大百科事典』「島津斉彬」

 

周子(賢章院)は,和漢学問の学問の素養がふかく,島津家にとついだときの嫁入り道具の中に本箱がたくさんあり,中に左伝・史記・漢書などが入っていて,役人たちがおどろいたという。斉彬の幼少のころから漢籍の素読をさずけたが,将来三か国の藩主となる身だからと,きびしくしつけた。また,斉彬13歳の冬父斉興は「月に山水」の絵をかき,側近の早川謀を通じて母の賛をもらわせたところ,周子はすぐに「月照破煩悩山,水上浮慶生船」という賛をいれた。さらに周子の作を斉彬が自らうつしたものと伝える「三十六歌仙こほろぎ物語」が斉彬を祭った照国神社(鹿児島市)におさめられ,『遺芳録』にのっている。こおろぎ・鈴虫など三十六の昆虫・小動物類が自らの名をよみこんだ形の和歌をつくるという式の,ユーモア感をただよわしたなかに仏教因果の理を説いた物語である。たとえば「はち」のよんだ「さほさしていつか渡らん三つ瀬川(三途の川)はちす(蓮)の舟にのり(法)をもとめて」のたぐいで,斉彬はこれを愛誦した。その影響であろう,斉彬も信仰心があつく,26歳のとき,天台宗の教理にある「十如是」をテーマとした和歌をつくっている。 安政期外交面で活躍した幕臣川路聖謨(としあきら)の妻高子が,幼少のころから鳥取池田家で周子の継母転心院につかえ,周子をよく知っていることを聞いた斉彬が,安政3年母の三十三回忌にその思い出を書いてもらった「笹の一葉」と題する一文も,『遺芳録』におさめられている。事の性質上賛辞にみちているが,周子が斉彬ら子供たちの教育に熱心で,信仰心のあつい人であったことをつたえている。 周子は斉彬の下に男子三人,女子一人を産むが,男子の一人斉敏は母の実家の親戚筋の岡山藩主池田家に養子入りし,ほかの二人はともに二,三歳で死に,女子祝姫は土佐藩(高知県)主山内豊煕(とよひろ)夫人となる。斉敏は天保13年に死ぬが,周子も文政7(1824)年8月16日斉彬16歳のとき34 歳で病死,法名を賢章院殿玉輪恵光大姉(ぎょくりんえこうだいし)という。この段階での母の死は斉彬は大きな痛手で,もし周子がずっと健在であれば25年後の異母弟久光との家督争いの発生は疑問である(『追録』)。

出典:『島津斉彬 人物叢書』

 

 

 

 


 

 

資料名 島津順聖公書御幼年御筆「瑶臺」

                             形状  軸
 

島津斉彬 文化6(1809)年~安政5(1858)年

島津家第28代当主。幼時から将軍家斉の岳父である曾祖父重豪に寵愛され指導された。優れた偉材であったので,藩の内外から藩主となることを期待されていた。しかし父斉興の重臣および側室由羅らが,その子久光を継嗣にしようとの動きがあり,斉彬の襲封は実現しなかった。高崎崩れ(お遊羅騒動)後,斉彬の危機を知らされた大叔父黒田斉溥らの斡旋で斉興が隠居し,43歳で襲封した。
国事多難の時期に藩内をまとめ,富国強兵策を率先し強力に実行した。政策は多方面にわたるが,特筆すべきものは科学的事業と洋式造船事業である。反射炉の建設は困難だったが「西洋人も人なり,佐賀人も人なり,薩摩人も同じく人なり,退屈せずますます研究すべし」と励まし,成功させた。西洋式軍艦昇平丸,蒸気船雲行丸などの造船をおこなった。篤姫を将軍家定夫人として,幕府に対する発言力を強め,病弱の将軍家定の継嗣問題が起こると,松平慶永らと共に徳川斉昭の子一橋慶喜擁立の運動をすすめた。
井伊の大老就任により形勢不利になった情況を朝廷を擁して幕府を改革しよう,そのためには斉彬が機を見て薩摩の精鋭を率いて上洛する,その日に備えて城下天保山の調練場で7月の炎天下に練兵を指揮していたが,急病となりついに逝去した。安政5(1858)年7月16日,50歳(満48歳10カ月)。斉彬が藩主であった期間はわずか7年半(生涯を通じて鹿児島にいた期間は4年半)に過ぎなかったが,斉彬の影響は大きかった。遺志は「順聖院様御深意」として引き継がれた。薩摩藩が幕末の政局を指導し,明治維新の原動力たり得たのは斉彬によるところが極めて大きい。斉彬は城山の麓の照国神社に祭られ,多くの県民の心の中に今も生きている。…

出典:『鹿児島大百科事典』

 

 

 

 


 

 

資料名 島津久光公御筆「従軍北征」

                              形状  軸
 

「天山雪後海風寒し。横笛偏に吹く行路難。

碩裏征人三十萬,一時首を廻らして月中に看る」

従軍北征(軍に従って北征す)

 

匈奴(中国を脅かした北方の遊牧民)の地に在る天山(中国新彊ウイグル自治区にある山脈)に,雪が降った後は,青海から吹き来る風が厳しく寒く殆ど堪えられない。折しも誰かが横笛で最も悲哀を催す行路難の一曲を吹奏したが,その聲の余りに悲しいので,砂漠の上に居る三十万の遠征軍が皆盡(ことごと,尽)く申し合わせたように,同時に首を廻らして,月明の下に互に顔を見合わせ,涙を流して悲しみに堪えられない様子である。…

出典:『唐詩選詳説下』(唐詩選第7巻七言絶句)

 

島津久光 1817~1887

第29代薩摩藩主忠義の父,斉彬の異母弟。本名は初め忠教・邦行,のち久光と改めた。幼名は普之進,次に又次郎,山城・周防・和泉・三郎と称し,大簡・双松・頑固道人・無松翁などの号がある。斉興の第五子として,鹿児島城に生まれる。生母は斉興の愛妾お由羅である。若くして重富島津家の養子となり,学問を好み,和漢の史籍に通じていた。弘化年間(1844~1848)外国軍艦が琉球を中心に来航するようになると,久光は軍事面を担当し,嘉永元 (1848)年には藩政に参与した。安政5(1858)年斉彬の遺命によって久光の子忠義が藩主となり,翌年父の斉興も没すると,久光は忠義のもとめに応じて本家に復帰した。久光は国父とよばれて,藩政の実権を握り,忠義を後見した。さらに大久保利通などの精忠士とともに,斉彬の遺志を継ぎ,中央政界への進出を志し,文久2(1862)年兵を率いて上京した。寺田屋で有馬新七などの過激派の志士を弾圧して,勅使大原重徳を奉じて江戸に下り,幕政の改革に成功した。この年,久光は西郷を龍郷から帰国させ,率兵上京に先発させたが,西郷は下関で待てという命にそむいて大阪に向かった。久光はこれに激怒し,西郷を山川港に護送の上,徳之島,さらに沖永良部島に流罪に処した。久光は,江戸からの帰途生麦事件を引き起こし,翌年の文久3年薩英戦争になったが,イギリス艦隊をよく撃退した。8月の政変後も,公武合体運動を進めて,朝議参与となったが,永続せず帰国した。元治元(1864)年西郷を沖永良部島からよびもどし禁門の変や第一次長州征伐に尽力させた。これ以後は,西郷・大久保を中心に,薩摩藩は長州藩と同盟を結んで,倒幕路線を歩んだ。維新の諸改革が行われると,久光はこれに内心不満を抱いた。西郷の下野後,大久保によって内閣顧問に任ぜられ,翌年左大臣に任命されたが,保守的な傾向が強く,明治8年辞任して郷里鹿児島の玉里邸に隠退した。同20年12月6日病死し,国葬によって福昌寺に葬られた。…

出典:『鹿児島大百科事典』

 

島津久光と明治維新

世間では明治維新と鹿児島というと,すぐ西郷隆盛と大久保利通の名が挙げられる。そして島津久光といえば,その西郷を島流しにした「ひどい殿様」という理解が一般的で,幕末史上の久光の役割について十分理解されてきたわけではない。
長州藩や水戸藩のように,早くから優れた活躍をした藩において,途中,挫折があり,それから立ち上がるのに苦労し,あるいは立ち上がれずに維新を迎えた藩がある。それに比べて,薩摩藩が,とにもかくにも一貫して挙藩統一行動をとった点に,大きな特色があり,それが結局,討幕戦への勝利を導く重要なポイントとなった。もし久光がいなければ,果たして薩摩藩が,そういう一貫性を持ち得たかどうかは,大いに疑問である。これこそが久光が堅持して譲らなかった基本的立場だったと思う。……
もちろん作戦参謀格の大久保利通,人望を集めた統率者西郷隆盛らの役割を決して見落としてはならない。ただ久光がいなければ,これらの人たちの優れた能力も,果たして,いわゆる適材適所に発揮できたかどうかは疑わしいとさえ思う。

出典:『島津久光と明治維新-久光はなぜ,明治維新を決意したか』

 

 

 

 


 

 

資料名 海老原家墓写真

                                 形状  写真
 

海老原清熈 (えびはら きよひろ) 享和3(1803)年~おそらく明治20年前後。

城下の浄光明寺(現在南洲墓地)門前に,中村太兵衛兼高の二男として生まれる。童名,岩次郎。文化5(1808)年2月海老原盛之丞清胤の養子となる。元服して宗之丞清熈と称する。うまれつき読書を好み,荻生徂徠,太宰春台,新井白石,貝原益軒,伊藤仁斎,同東涯,雑史,漢籍軍書等を広く学び,経済実務の学問を身につけた。21歳より山川郷渡の蔵役を求め,数年にして金五百両の利益を得たが,ことごとく養家の借財を返済して信用を博した。天保6(1835)年12月蔵方目付に任ぜられ,上阪し,はじめて調所笑左衛門に謁する。時に清熈31歳の気鋭,その所信をはばかる所なく調所に直言し,その卓抜した才能を認められ,以後調所のブレーンとして改革方随従となる。いわゆる天保の改革の諸政策の発案・推進者となり,中枢的役割を果たす。調所の自殺後,斉彬派に憎まれて退役し,隠居名を雍斎と称し,不遇の境涯に陥る。さらに文久3(1863)年には「謀主トナリテ姦意ヲ助候者」として斉彬派より追罰をうける。明治17(1884)年8月,維新後の殖産興業の時代的要請に応じて,鹿児島県令渡辺千秋に呈出した天保改革関係の書類や彼の覚書は,貴重な資料である。

出典:『薩摩藩天保改革関係資料1』鹿児島県史料刊行会,『 幕末の薩摩』『 鹿児島県の歴史』『海老原清熈履歴概略』『海老原清熈家記抄』『鹿児島大百科事典』

 

幼少から書を好み,広く漢書を読んで経済実務の学問を身につけた。21歳から山川の蔵役,天保6(1835)年蔵方目付になって上阪し,調所広郷に面接,意見を述べて認められた。以後調所のブレーンとして財政再建に腕を振るい納戸奉行として国分干拓もやった。調所の自決後斉彬派に憎まれて辞官した。

出典:『郷土と日本を築いた熱き薩摩の群像』

 

 

 

 


 資料名 調所笑左衛門墓写真

                                形状  写真
 

調所の功績

単に破局の薩藩財政を再建して莫大な貯備金を藩庫にのこしたのみならず,甲突川の浚渫と天保山の造成,甲突川五大石橋の建造をはじめ領内の道路,河川,港湾,橋梁の開発整備,藩邸や社寺の造建,農政紊乱の矯正,大阪蔵屋敷の国産品売買の改正など。枚挙にいとまないほどで,その余沢は長く後世に及び,維新活動の薩藩のエネルギー源となった。
調所の功績は今でこそ正しく知られているが,斉彬の擁立を阻んだことから斉彬派から憎まれ,調所の自殺後,家は零落のはてに一家離散し,そのブレーンであった海老原清熈も退役させられただけでなく,追罰まで受けた。西南戦争後,県令渡辺千秋が調所の事業に着目,それにこたえて海老原の著述が生まれた。その後,学問的な整理公開もすすみ,わが国学界の共有財産となった。なお調所が財政改革に成功した所以は,重豪および斉興の強力で不動の信任があったこと,彼は性淡泊で人を視るの明にすぐれ,また人々を用いるに広い度量を以てし,誠実勤勉を以て身を処したからである。

出典:『鹿児島大百科事典』『調所広郷人物叢書』

 

 

 

 

 

 

資料名 反射炉図面

                                  形状  図面
 

第28代当主島津斉彬は,早くから国防の緊急なことを痛感して,造砲の改善に着意した。そこで反射炉の建設を計画し,嘉永5(1852)年ひな形を設けたが,結局失敗した。そこで大反射炉を建設すべく同年冬から磯邸の竹林(御取添地)を開き,江夏十郎・中原猶介・田原直助らの努力によって翌年の夏落成した。溶鉄の成績も良好であったらしく,「反射炉も此の間ちょっと試みも為し仕り候処,鉄忽ち鎔解仕り候事に御座候」と水戸候に報じている。しかしその後故障が出たので,江夏らが改修に当たった。入費の莫大を憂えて中止の意見もあったが,斉彬は厳然として新反射炉の築造を命じ,安政3(1856) 年の春竣工した。新造の反射炉もしだいに破損したので,重ねて一基の新築に着手し安政4(1857)年の夏落成した。ここにおいて5年の星霜を数え,3回の改築を経,苦心の結果二基が完成した。斉彬はこれに満悦し「反射炉此節十分に出来仕り,大悦に罷り在り候間,御吹聴申上候」と越前候に書き送った。

出典:『鹿児島大百科事典』

 

「西洋人モ人ナリ佐賀人モ人ナリ薩摩人モ同ジク人ナリ退屈セス倍々研究スベシトノ 御事」

出典:『斉彬公言行録1』