『幻の名画-安永八年鹿児島噴火図,桜島大爆発』

『幻の名画-安永八年鹿児島噴火図,桜島大爆発』

 

 

資料名 桜島爆発絵図 安永年間 (鹿児島市側)

                           形状  軸
 

 

 

 

資料名 桜島爆発絵図

                                形状  軸
 

安永年間の噴火
安永8(1779)年海岸沿いの民家で井戸が煮えたぎり,赤く焼けた噴石が飛び,南岳の南側中腹と北岳北東側中腹から溶岩(安永溶岩流A)が流れ出し,148人が死亡したと言われる。(桜島燃亡霊碑文)(安井,1958年)。この活動は天明元(1781)年にかけて続き,島津藩から幕府への届け出には,多数の家屋の全半壊,死亡者が出たとされる。この時に流出した安永溶岩はカンラン石をわずかに含む両輝石安山岩で,現在では桜島の北東側と南岳の南側で見られる。

鹿児島市南林寺町にある南洲寺の南隣りには「桜島燃亡霊等」と刻まれた,安永大噴火による死者の供養塔がある。この石碑は,安永8年の冬に建てられたもので,その両側の面に男75人,女70人,男女不明3人,計148人の戒名が刻まれている。裏面には,古里村6人,有村57人,脇村34人,瀬戸村46人,黒神村5人と書いてある。

 

大正大噴火では,鹿児島市の死者13人,負傷者96人(地震で圧死等)桜島は死者2人,負傷者1人記念碑は死傷者140人

出典:『鹿児島大百科事典』『かごしま文庫13桜島大噴火』

 

現在鹿児島県を代表する火山である桜島については,奈良後期の噴火関係史料がある。その史料の記載から,当該期桜島は「麑嶋(鹿児島)」と呼ばれていたと考えられている。鎌倉末期以降は,「向島(向之島)」と呼ばれた。

出典:『近世薩摩における大名文化の総合的研究』「大隅国正八幡宮領に関する一考察」

 

 

 

 


 

 

 

資料名 安永年間桜島昼夜大噴火の図

                              形状  軸
 

「両山腹から溶岩流出-とび交う流言」安永8年10月1日は,朝から浜辺の井戸水は沸き上がって流水のようになり,海水は紫色に変わっていた。午前11時ごろ,遂に南岳から白煙が上がった。午後2時ごろには南岳の下の部分,有村の上にある燃之頭と呼ばれる辺りから黒煙の大噴出が起こった。その高さは上空3里ばかりと思われた。大爆発音とともに,噴煙の中には無数の電光が走り,噴火の勢いはますます盛んとなっていった。午後4時ごろになると,高免村の上にある瓶掛と呼ばれる辺りからも噴火が起こった。噴火による鳴動はますます激しくなり,翌10月2日の早朝には,二俣村まで噴石が落下し始めた。垂水方面を襲った噴煙は,10月3,4日になってようやく薄らいできた。鹿児島城下への降灰もひどく,4日の午前10時から午後2時過ぎまでは,暗夜の状況になっていた。鹿児島城下では,「鹿児島まで火勢が及ぶぞ」「飛び石が落下してくる」「津波が押し寄せて来るぞ」などの流言が飛び交い,住民の恐怖感は募るばかりであっや。そして,鹿児島の城下は屋上、樹上を問わず降灰に覆われたが,東南風が吹かなかったため,被害は少なかった。しかし,風下に当たる垂水・牛根・福山などは噴石や降灰のため大きな被害を受けたのである。この時の噴火で,桜島はその北東部と南側の両山腹から溶岩を流出させた。また,軽石も大量に噴出したため,桜島の東側から南側にかけて,2~3メートルの厚さで堆積し,耕地はすべて埋没した。
出典:『かごしま文庫13桜島大噴火』

 

 

 

 


 

 

資料名 安永年間大噴火桜島西方面

                             形状  軸
 

上側に「安永年間大噴火櫻島西方面」,左側に「大正三年三月十一日上田光○写」,右側に「櫻島御神火之事濱崎諸右エ門所蔵」とあります。『桜島御神火之事』作者・成立年・原本ともに不明,県立図書館に写本のみ存在。写本は濱崎諸右エ門所蔵となっている。島内のことに詳しいので,島民の記録の可能性が高い。安永9年11月頃の記述があるから,成立はそれ以降。…

出典:『史料からみた桜島安永噴火の推移』