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『薩南学派の系譜-桂庵禅師とその弟子たち』

 

資料名 桂庵禅師肖像
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資料名 文之和尚肖像
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文之(ぶんし)

弘冶元(1555)~元和6(1620)年。文之の姓は,湯佐氏,名は玄昌,雲興軒,時習斎ともいい,また南浦,懶(らん)雲,狂雲と号した。父は河内の人,日向飫肥南郷の外浦(とのうら)に生まれたので南浦と号したという。龍源寺の大儒一翁に就いて桂庵~月渚(げっしょ)~一翁の桂門宋学の学統をついだ。島津義久,義弘,家久の三代の寵遇をうけ, 大隅の安国,正興両寺を掌り,また城下大龍寺の開基となった。また,鎌倉建長寺の長となったこともある。かれは臨済僧であったが,儒仏二教の一致を説き,『四書集中』『周易伝義』の和点,『南浦文集』『砭愚論(へんぐろん)』などの著があり,大いに世に行われた。門流に如竹,平田純正ら多くの俊秀を出し,如竹の門からは愛甲喜春(きしゅん)を出した。文之は,儒僧たると同時に,義久,義弘,家久三代の黒衣の外交家として大いに働き,ことに琉球服属の時の功は大きかった。鉄砲伝来について『鉄砲記』をあらわしている。

出典:『称名墓誌巻之三』『人物伝備考附録』『三国名勝図会巻之六』

 

 

 

 


 

 

資料名 重野安繹書
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重野安繹(しげの やすつぐ)

文政10(1827)~明治43(1910)。幕末・明治期の歴史家・漢学者,字は士徳,号は成斎。薩摩藩士として昌平黌に学んだが,特に古学派の考証学に親しみ,この頃より学才を認められた。帰藩後,藩校造士館で教える。薩英戦争の際にはその談判にあたった。明治維新後,文部省に出仕,明治19(1886)年臨時修史局編修長となり,この間,史料収集を行ない「大日本編年史」の編集を主宰。その学風は厳密な実証主義にたち,児島高徳や楠正成の史話は事実でないと論証し【抹殺博士】とよばれた。またこの間,明治21(1888)年,東大教授となり,東大国史科を設置。史学会会長となり久米邦武・星野恒らと史学科の基礎をきずく。歴史のみならず詩文にすぐれ,明治時代屈指の漢学者であった。文学博士。貴族院議員。「大日本維新史」明治32(1899)年,「右大臣吉備公伝簒釈」明治 35(1902)年,「国史綜覧稿」明治39(1906)年,「重野安繹史学論文集」13(1938)年~14(1939)年

出典:『コンサイス人名辞典 日本編』