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『薩摩と琉球』

 

 

資料名 薩琉海路図
形状 軸
 

薩摩から琉球に至る航路及び港湾の状況などを詳細に記した実用性の高い航海図です。鹿児島から沖縄本島を経て,西表島に至る航路や港湾も詳細に描かれ,地域ごとの石高が示されています。

 

 

 

 


 

 

資料名 琉球人行粧之図2
形状 巻物
 

琉球館(琉球館)について
鹿児島城下(現在の食糧事務所合同庁舎および鹿児島市立長田中学校の敷地)にあった琉球関係の役館。古河古松軒が天明3(1783)年夏ごろ薩摩を歴遊した時の記録『西遊雑記』に,「琉球館を一見せしに,門番有りて内に入る事を禁ぜり。およそ百人ばかりは鹿児島へ渡り居て琉球の産物を売買し,または交易をする事にて,何れも日本の言葉を七八分もつかふといへり。田舎よりも京へ登りて諸藝を習ふやうに,琉球人は鹿児島に渡りて学文をし諸藝を習ふ事にして,和歌もよみ手跡も見事なる琉球人有るなり。天窓(あたま)は有髪にて小童の髪結びしやうに何れも丸分けにして,(こうがい)をさして居るなり。衣は日本にいふ居士衣のごとし。儀式葬祭の節はいろ いろの冠衣服もあるべし。右は平生のなりなり。容体は柔和に見えて,顔長にして人品あしからず。
五雑俎に琉球は醇なりと記せしはむべなり」と記し,『薩摩風土記』は琉球館および琉球商船の図を写し,「きり石のへい,御殿は外武家のごとし。玄関前のはたは風しるしなり。御公儀様御高札,琉官屋舗の前にあり」・「琉球商船は願ば他国より役宅ものは,島へも参事,国法度なり。訴はできるなり。外国の人は,琉球人とはなしする事も法度なり。りう人はかんない(琉球館内)に居なり。
外嶋の唐人は町とんや(問屋)あり。りう人,町にて芸子遊び御法度なり。唐物・琉球御法度なり。
またぬけ漬物,天下様厳敷御法度なり。りうきうにては日本の金銭とはやりとりあれども,外の島にてはしろものととりかへなり。さとう五斤に米一升のかふゑきなり。りう人もの言は,唐人に逢へばもろこしのことば,日本人にはなせば日本の言葉,薩摩言葉より能わかるなり。大和言葉とて,かの国にて習といふなり。至て人物はやわらかなり。琉人,さつまの人をさして口大和(くちやまと)といふ。京坂江戸をおく大和といふ。午未の風にて日本へ来る。玄子の風にて彼地に下る」と記しているが,薩摩の琉球口を通じての唐貿易を取り扱うための役所で,調所広郷が家老の身で「琉球館聞役」に任ぜられていること,さらに調所の死後家老島津久宝を琉球掛に任じていることなど貿易事務の重要性を語っている。なお中国福州にも琉球館が置かれ,進貢・接貢船の唐貿易の機関となっていた。
出典:『鹿児島大百科事典』

 

 

 

 


 

 

資料名 天保壬辰新鋟中山聘使略
形状 巻物
 

 

 

 


 

 

資料名 琉球館上使取持次第
形状 巻物