『鹿児島城下のあゆみ-上町・下町・西田町を中心に』

『鹿児島城下のあゆみ-上町・下町・西田町を中心に』

 

 

 

資料名 鹿児島上町写真
形状 写真
 

 

 

 


 

 

資料名 薩藩御城下絵図(鹿児島)
形状 軸
 

鹿児島城下の様子を描いた最も古い絵図は,鹿児島県立図書館にある寛文十(1670)年頃の「薩藩御城下絵図」である。鹿児島城下は,嘉慶(かきょう) 元(1387)年に築かれた清水城(現鹿児島市稲荷町・清水中学校)を中核に形成され始め,島津氏の居城が,天文十九(1550)年御内(同大竜町・大竜小学校)に江戸時代に鶴丸城(同城山町)に移るにつれ,城下町も拡大・整備されていった。残念ながら,清水城・御内時代の様子を描いた古地図は現存していない。
さて,「薩藩御城下絵図」で一際目を引くのが,画面中央に描かれた鶴丸城である。鶴丸城は俗称で,正式には鹿児島城といい,当初は上山城(城山)とその麓に築かれた居館からなっていた。絵図でも上山城のところに「鹿児島城」とあり,武道具屋や番所などの建物が描かれている。城の登り口は,城の西方・東方・南方の三ケ所,南方の現照国神社裏手あたりが大手門であった。この上山城部分は,この後しばらくして使われなくなり,鶴丸城といえば,麓の居館部分を指すようになった。
その居館部分,現在,歴史資料センター黎明館がある本丸には「大隅守居宅」と,県立図書館や市立美術館がある二の丸には「薩摩守居宅」と書かれている。大隅守は十九代島津光久,薩摩守はその子綱久である。城の回りには整然とした町並が描かれている。海岸線は現在よりずっと内陸にあり,現易居町辺りだけが出島のように海に突き出て,南林寺(現松原神社)が海に面している。ちょうど,市内電車の通る辺りが海岸線だったと思われ,現小川町・堀江町・住吉町辺りはまだ海の中である。また,甲突川は「浅き砂川」とあり,南林寺の西が河口となっている。この川筋は,現在の清滝川。江戸中期にこれより西,現在の川筋に替えられた(詳細不詳)。天保十四(1843)年編さんの『三国名勝図会』にすでにいつ流れを変えたか分からないかのように書かれており,川筋直しがおこなわれたのは,十七世紀末か十八世紀前半のことと思われる。城下から地方に伸びる道は三本。西に伸びるのが出水筋だが,注記はない。北の伊敷方面へ伸びる道には「東郷道」,北東の吉野方面へ伸びる道には「大口・加治木よりの往還筋」と書かれている。また,吉野実方の稲荷川と交わる橋は「板橋」と注記されている。ここに架かる実方太鼓橋(1993 年流失)は寛永年間(1624~44)の建設と伝えられ,県内最古の石橋と目されていたが,この古地図を見る限り史実ではないようだ。

出典:『鹿児島歴史探訪』

 

 

 

 


 

 

資料名 正徳三年御城絵図
形状 軸
 

島津氏21代吉貴は,正徳3(1713)年12月,城下からの火災防止のため,二之丸囲の長屋を堀に直し近辺の家来の屋敷を除去する願を幕府に上申した。そのときの願書に付けられた絵図の控えである。
出典:『黎明館企画特別展 薩摩七十七万石-鹿児島城と外城』

『集成館事業と近代日本』

『集成館事業と近代日本』

 

 

 

資料名 旧鹿児島藩主以下薩隅日三州出身諸公の肖像
形状 軸
 

 

 

 


 

 

資料名 島津順聖公書御幼年御筆「瑶臺」
形状 軸
 

島津斉彬
文化6(1809)~安政5(1858)年第28代薩摩藩主。幼時から将軍家斉の岳父である曾祖父重豪に寵愛され指導された。優れた偉材であったので,藩の内外から藩主となることを期待されていた。しかし父斉興の重臣および側室由羅らが,その子久光を継嗣にしようとの動きがあり,斉彬の襲封は実現しなかった。高崎崩れ(お由羅騒動)後,斉彬の危機を知らされた大叔父黒田斉溥らの斡旋で斉興が隠居し,43歳で襲封した。国事多難の時期に藩内をまとめ,富国強兵策を率先し強力に実行した。政策は多方面にわたるが,特筆すべきものは科学的事業と洋式造船事業である。反射炉の建設は困難だったが「西洋人も人なり,佐賀人も人なり,薩摩人も同じく人なり,退屈せずますます研究すべし」と励まし,成功させた。西洋式軍艦昇平丸,蒸気船雲行丸などの造船をおこなった。篤姫を将軍家定夫人として,幕府に対する発言力を強め,病弱の将軍家定の継嗣問題が起こると,松平慶永らと共に徳川斉昭の子一橋慶喜擁立の運動をすすめた。井伊の大老就任により形勢不利になった情況を朝廷を擁して幕府を改革しよう,そのためには斉彬が機を見て薩摩の精鋭を率いて上洛する,その日に備えて城下天保山の調練場で7月の炎天下に練兵を指揮していたが,急病となりついに逝去した。安政5(1858)年7月16日,50歳(満48歳10カ月)。斉彬が藩主であった期間はわずか7年半(生涯を通じて鹿児島にいた期間は4年半)に過ぎなかったが,斉彬の影響は大きかった。遺志は「順聖院様御深意」として引き継がれた。薩摩藩が幕末の政局を指導し,明治維新の原動力たり得たのは斉彬によるところが極めて大きい。斉彬は城山の麓の照国神社に祭られ,多くの県民の心の中に今も生きている。

出典:『鹿児島大百科事典』

 

 

 

 


 

 

資料名 中原猶介写真
形状 写真
 

中原猶介(なかはらなおすけ)

天保3(1832)年~明治元(1868)年名は尚勇,鉄心斎と称した。城下上荒田生まれ。少年のころより蘭学 を自習していたが,藩命により長崎に出張,オランダ人に蘭学を学んだ。斉彬に用いられ反射炉築造や軍艦製造に従った。斉彬の死去後と文久元(1861)年と二度にわたり江川太郎左衛門塾に学び塾頭に昇り塾生を監督教授するに至った。薩英戦争の時には長崎で病臥中であったが,禁門の変には軍賦役となり大砲隊長として功を立てた。慶応2(1866)年長州再征の時には長崎にあって長州藩の軍艦兵器の購入を斡旋した。翌年2月英国公使訪薩に当たっては接待役となり実弾演習を行った。明治元(1868)年鳥羽伏見に戦い,3月海軍参謀を命ぜられたが病気のため一時帰郷6月再び出発,越後長岡城攻撃に参加,河井継之助の逆襲をうけ,右脚に弾丸をうけ,柏崎病院で没した。甲南高校庭に誕生碑がある。

出典:『鹿児島大百科事典』

『近世書家鮫島白鶴とその時代 ~鮫島白鶴と川口雪篷を中心に~』

『近世書家鮫島白鶴とその時代 ~鮫島白鶴と川口雪篷を中心に~』

 

 

 

資料名 鮫島白鶴書
形状 折本
 

 

 

 


 

 

資料名 川口雪篷書
形状 軸
 

 

 

 


 

 

資料名 鄭嘉訓書
形状 軸

『見事(みごっ)探元!木村探元 ~狩野派の伝統に雪舟の水墨画を盛る~』

『見事(みごっ)探元!木村探元 ~狩野派の伝統に雪舟の水墨画を盛る~』

 

 

 

資料名 天神御影 大弐法橋探元
形状 軸
 

説  明:  
天神像もまた勧善懲戒的な意味合いを持つ画題としてよく描かれた。陰影を施した衣の表現は「自画像」(市立美術館藏)に通じるものがある。謹直な表現であるが,「聖賢図巻」(同)と比べると衣文線には作画活動の後期の作品に散見されるくせのある描線が見られる。
出典:『木村探元展-近世薩摩画壇の隆盛』鹿児島市立美術館,昭和62年

 

解  題:
木村探元,延宝7(1679)年~明和4(1767)年。江戸時代薩摩の画家。
名は守広,のち時経,通称村右衛門,静隠,三暁庵,浄徳堂法浄など多数の画号があり,近衛家より大貳の称号を賜り大貳法橋(だいにほっきょう)とも称した。現在の鹿児島市千石馬場近くに生まれる。薩摩において小浜常慶に画を学んだ後,元禄16(1703)年狩野探幽の画を慕い江戸に赴くが,探幽はすでに没していたので探幽の子探信守政に弟子入りした。数年を経て帰郷,若くして鶴丸城内に襖絵を描くなど,その画才は非常に優れ,彼の絵を評して「見事探元」という言葉が生まれた。さらに京都の近衛家において絵画を制作するなど彼の活躍の場は,薩摩に限られるものではなかった。彼の絵画は,狩野派の伝統的な流れの中に雪舟,秋月などの水墨画の気分を盛り込んだもので,全体的に質実剛健の気風を持ち,「富士山図」「富嶽雲烟図」はそのような画風を伝えた代表作であろう。彼の描く絵画は山水図にとどまらず,花鳥画,人物画と多岐にわたり,今日探元筆を示す落款の入った作品が非常に多い。また,探元には能勢探竜,押川元春など優れた門人が多く,彼を中心とする画派が江戸時代の薩摩画壇を代表するものとなった。画集としては,大正15(1926)年刊行『探元画集』があり,探元に関する書物には,探元が語る話を友人が記述した『三暁庵談話』『白鷺州』や自ら記した『木村探元上京日記』等がある。彼の墓は,鹿児島市小野町高架木にある。
出典:『鹿児島大百科事典』

 

 

 

 


 

 

資料名 押川元春筆
形状 軸
 

説  明:
「寿老人」
押川元春(生没年不詳)は,江戸時代に薩摩画壇を代表する木村探元〔延宝7(1679)年~明和4(1767)年〕の弟子で,探元に随い京都の近衛家に滞在し画業を学んだ。享保13(1728)年に島津継豊の側室に男子(後の宗信)が生まれ,芝の島津藩邸の奥室を改造した建物の屋上を鶴が飛来したのでめでたいということでの鶴を元春にかかせたことがある。
出典:『西藩野史』

 

 

 

 


 

 

資料名 能勢一清筆
形状 軸
 

 

 

 

資料名 能勢一清筆
形状 軸
 

能勢一清(1790年~1854年)
木村探元の高弟,能勢探竜の曽孫にあたる。寛政2年11月23日に生まれた。名は泰央,通称は武右衛門,小字は十郎宇。画号に,浄川軒一清,烹雪庵,静徳,懐徳庵,心斎などがある。初めは黙観と号し,十五歳まで西田の人,森某の門人となった。森某とは一説によると,探元の弟子,森探瑞の弟,森玄心であったといわれている。玄心は探元の弟子であった可能性があり,そうなると一清は探元の孫弟子ということになる。
(略)
弘化,嘉永のころの薩摩の画人で一清の右にでるものはいないとまでいわれた。一清は,探元の系譜に連なる絵師であったことは確かである。一清は雪舟や探幽をよく学んでいる。その姿勢は,探元の作品から学んだものといえよう。そして,探元が雪舟と探幽の様式を止揚して独自の画風を樹立した様に一清にも優れた作例がある。「草蘆三顧之図」は蜀の劉備が諸葛亮を軍師として招くのに三顧の礼を尽くしたという故事を描いたもので,緊張感が伝わってくる作品となっている。
(略)
『薩藩画人伝備考』には一清がかって伊集院の広済寺のもとめにより十六羅漢図を描き,弘化4(1847)年4月11日の明け方,曾祖父探竜を夢に見てその肖像を写し,子孫に残したものがあったと記されているが,これらは現在確認されていない。同書にはまた,嘉永6(1853)年春,日置郡郡山町の花尾神社改築に際し,藩主斉彬の命によって,一清が殿内格天井に花卉の絵があしらわれた格天井がある。絵は彩色による精密な写生描写であるが,絵具の落剥も目立つ。同神社社務所によると天井の裏面には絵師等の記載はなく,他にこれに関する資料も伝えられていないとのことである。井上良吉氏がどのような資料をもとにしてこのように記したのかは不明である。現存の天井絵が一清筆といえるかは,今後更に詳しい調査を必要とするだろう。能勢一清は安政4年8月27日,65歳で没した。法名は浄川院心斎一清居士。大徳寺に葬られた。なお,能勢一清には,実子の内山一観をはじめ,八木松濤軒,下河辺行廉,中原南渓,床次正精といった弟子がいる。

出典:『かごしま文庫43 薩摩の絵師たち』春苑堂,平成3年

『西郷隆盛展 肖像画と書を中心に』

『西郷隆盛展 肖像画と書を中心に』

 

 

資料名 西郷南洲書 石版刷西郷南洲書 
形状 額
 

 

 

 


 

 

資料名 南洲翁筆私学校綱領
形状 軸
 

 

 

 


 

 

資料名 西郷隆盛肖像画
形状 肖像画

『西郷隆盛と西南戦争』

『西郷隆盛と西南戦争』

 

 

資料名 椎原国幹画「鷲の画」
形状 画掛軸
 

 

 

 


 

 

資料名 野村忍介(南陽)書
形状 軸
 

 

 

 


 

 

資料名 辺見十郎太書
形状 軸

『西郷と大久保~精忠組の有志たち~』

『西郷と大久保~精忠組の有志たち~』

 

 

資料名 西郷隆盛の肖像
形状 軸
 

 

 

 


 

 

資料名 大久保利通肖像画
形状 肖像画
 

 

 

 


 

 

資料名 西郷隆盛肖像
形状 肖像画


西郷隆盛の写真は存在しておらず,最も古い肖像画は,大蔵省印刷局技師でイタリア人のエドアルド・キョソーネが描いたものである。下部に E.Chiossone,Tokio 1883 と記されており,明治16年,東京で描かれていたことがわかる。コンテ・チョークによる精緻な筆致の作品で,顔の上部は弟の従道を,下部は従弟にあたる大山巌を参考とした。

参考:『西郷隆盛全集 月報1』

 

 

 

 


 

 

資料名 大久保利通肖像画(木炭画)
形状 パネル貼
 

 

 

 


 

 

資料名 税所篤氏書幅
形状 軸
 

 

 

 


 

 

資料名 大山綱良書翰
形状 巻物
 

 

 

 


 

 

資料名 岩下方平書
形状 軸
 

 

 

 


 

 

資料名 大久保利通誕生地記念碑写真
形状 写真
 

 

 

 

 

『西南戦争錦絵』2

『西南戦争錦絵』2

 

 

資料名 西南役関係錦絵 鹿児島の暴徒出陣の図
形状 錦絵
 

 

 

 


 

 

資料名 西南役関係錦絵 鹿児島征討出陣図
形状 錦絵
 

 

 

 


 

 

資料名 西南役関係錦絵 鹿児嶋征討紀聞之内熊本川尻口本営之図
形状 錦絵
 

 

 

 

資料名 鹿児島全図
形状 絵・絵図等
 

 

 

 


 

 

資料名 西南役関係錦絵 鹿児島新聞熊本城戦争図
形状 錦絵
 

「…熊本城に官軍と戦ひ黒煙天に漲り砲声地を裂かんと疑ふ暴徒は突然として一手の兵を起こせしが弥官軍進撃なして城の傍らに討出ししが暴徒敗走に至り兵器を打捨て散々に体を引退けるとなん」

出典:『図説,西郷隆盛』

 

 

 

 


 

 

資料名 西南役関係錦絵 鹿児島新報田原坂激戦之図
形状 錦絵
 

坂をめぐる一進一退の攻防実に十七日間 西南戦争最大の激戦で兵器・兵員の補給に劣る薩軍は篠原国幹をはじめ多数の将兵を失って敗走した。

出典:『翔ぶが如く」と西郷隆盛』文芸春秋デラックス

 

 

 

 


 

 

資料名 西南役関係錦絵 鹿児島戦争記
形状 錦絵
 

熊本城を攻めあぐねた西郷軍の幹部が,城の西方に当たる花岡山に集まって,攻撃方法について軍議を行っている図。

出典:『錦絵幕末明治の歴史8 西南戦争』

 

 

 

 


 

 

資料名 西南役関係錦絵 鹿児嶌紀聞
形状 錦絵
 

 

 

 


 

 

資料名 西南役関係錦絵 鹿児島征討記之内
形状 錦絵
 

「高瀬口河通の戦争,野津公連隊旗を取り返す」とあるが,乃木少佐が取られた連隊旗は,そのときは返ってはいない。

出典:『西郷隆盛,写真集』新人物往来社,昭和62年

 

 

 

 


 

 

資料名 西南役関係錦絵 鹿児島紀聞之内副将村田討死之図
形状 錦絵
 

 

 

 


 

 

資料名 西南役関係錦絵 鹿児嶋記聞内賊兵激戦之図
形状 錦絵
 

 

 

 


 

 

資料名 西南役関係錦絵 鹿児嶋戦記
形状 錦絵
 

 

 

 


 

 

資料名 西南役関係錦絵 鹿児島新聞
形状 錦絵
 

 

 

 


 

 

資料名 西南役関係錦絵 鹿児島追討之図
形状 錦絵
 

 

 

 


 

 

資料名 西南役関係錦絵 鹿児島征討全記之内海軍須口村上陸之図
形状 錦絵
 

田原坂方面における血戦は最高潮であった。官軍は陸軍の応援として肥後の海に海軍力を投入,八代方面に上陸し薩軍の背後を衝くべく,3月19日,日奈久の南方須口の浜にボートを利して大軍を上陸させた。上陸軍は黒木中佐を長とする歩兵第2連隊と巡査500名であった。この上陸成功は薩軍に大打撃を与えた。
出典:『図説,西郷隆盛』

 

 

 

 


 

 

資料名 西南役関係錦絵 九州植木口激戦図
形状 錦絵
 

 

 

 


 

 

資料名 西南役関係錦絵 鹿児島征討再乱記
形状 錦絵
 

 

 

 


 

 

資料名 西南役関係錦絵 鹿児島再戦賊徒進入図
形状 錦絵
 

 

 

 


 

 

資料名 西南役関係錦絵 鹿児島日記 城山攻撃戦図 
形状 錦絵
 

 

 

 


 

 

資料名 西南役関係錦絵 西郷星出現
形状 錦絵

『西南戦争錦絵』1

『西南戦争錦絵』1

 

 

資料名 西南役関係錦絵 鹿児島暴徒出陣図
形状 錦絵
 

この錦絵は,明治12年に福田版元から絵師大蘇芳年の手により刊行されたものです。 錦絵の内容は,「頃は明治10年2月中旬鹿児島の士族暴発し其の勢凡そ1万有余,総大将西郷隆盛,副将篠原,桐野を始め村田,辺見,池上其の他の隊長伍列を正し,三太郎峠の雪ふみ道を岐して正奇の両軍熊本へ繰り出す勢い最も広大なりしと」とあります。
西南戦争錦絵は,西郷軍を賊軍・逆賊と書いていますが,錦絵の主人公はあくまでも西郷軍です。これは厳重な検閲制度を通過するためのもので,当時の庶民の人気は西郷軍にあったようです。

出典:『鹿児島女子短期大学紀要第17号』「西南戦争錦絵について」昭和57年,『西郷隆盛写真集』

 

 

 

 


 

 

資料名 西南役関係錦絵 鹿児島城激戦ノ図
形状 錦絵
 

この錦絵は,明治10年9月に大倉版元から絵師楊洲斎周延の手により刊行されたものです。 錦絵の内容は,可愛岳越えで官軍包囲網を突破した西郷軍が,鹿児島に突入した様子を描いた場面です。当時,新聞が伝える情報がすべてで,絵師はそれをもとに想像していたようです。
この錦絵では,中央に「篠原ノ妻女」,その横に「淵辺ノ妻」と説明があります。女性を奮戦させていますが,浮世絵師は美人画を描くのが得意で,錦絵に美しい色彩をあたえる意味からも彼女らの活躍は必要だったようです。本館には絵師楊洲斎周延の作品を34点所蔵していますが,No.18鹿児島再戦,賊徒侵入図で「篠原の妻」「桐野の妻」を,No.21鹿児島暴徒女隊勇戦図で5人の「勇婦」を登場させています。
このように女性を活躍させているのは,5月30日及び31日の東京曙新聞掲載の「鹿児島の女隊が官途(かんと)にある人々の鹿児島にある邸宅をうちこわした」記事を裏付けにして広汎な女隊軍に発展したのだと思われます。なお,この新聞記事は事実であり「大久保・川路等の家破毀」とあり,大久保・川路の外にも「奈良原幸五郎(繁,喜八郎)・樺山資紀等の宅」も破壊したと当時の鹿児島の記録に出ています。錦絵の内容は新聞記事によるものが多いので,その新聞記事の内容が事実であるかどうかによって,錦絵の内容が事実であるか,虚構であるかがわかれますが,残念ながら虚構の場合が多いようです。
出典:『鹿児島女子短期大学紀要第17号』「西南戦争錦絵について」昭和57年

 

 

 

 


 

 

資料名 西南役関係錦絵 鹿児島戦闘記
形状 錦絵
 

この錦絵は,明治10年6月に浦野版元から絵師山崎年信の手により刊行されたものです。 錦絵の内容は,桐野利秋と野津鎮雄少将の一騎打です。これは数点見られる図柄です。当時,新聞が伝える情報がすべてで,絵師はそれをもとに想像していたようです。これも「古武士の俤(おもかげ)を其のまま桐野と野津の応酬」とある当時の新聞記事を活用して書きあげたものと思われます。錦絵の内容は新聞記事によるものが多いので,その新聞記事の内容が事実であるかどうかによって,錦絵の内容が事実であるか,虚構であるかがわかれますが,残念ながら虚構の場合が多いようです。
出典:『鹿児島女子短期大学紀要第17号』「西南戦争錦絵について」昭和57年

『薩英戦争 絵巻物と砲台図』

『薩英戦争 絵巻物と砲台図』

 

 

資料名 薩英戦争絵巻
形状 巻物
 

 

 

 


 

 

資料名 薩英戦大門口台場人数
形状 巻物
 

 

 

 


 

 

資料名 薩藩砲台図稿本
形状 図書

『薩摩の豪商,浜崎太平次』

『薩摩の豪商,浜崎太平次』

 

 

資料名 長崎旧薩摩屋敷及浜崎太平次倉庫並住宅図
形状 地図・図面等
 

 

 

 


 

 

資料名 密貿易所タリシ熊毛郡上屋久村,口之永良部島全図
形状 図1枚

『薩摩の武道』

『薩摩の武道』

 

資料名 示現流書目録
形状 巻物
 

示現流(じげんりゅう) 薩摩独特の剣術で,東郷藤兵衛肥前守重位を流祖とする。重位は初め待捨流を学びその極意に達したが,藩主に従って上洛したとき,京都萬松山天寧寺の僧善吉から天真正自顕流を学び,天正16(1588)年その秘訣のすべてをうけた。薩摩に帰ってから重位は,自宅の立木・生木を相手とし,樹のすべてを打ち枯らして心技を練ること3年,待捨流と自顕流の精髄を総合渾和して独特の剣術を創始した。藩主家久はその名を聞き,藩の剣術師範役である待捨流の東小太郎との立ち合いを命じたが,重位はこれを倒した。慶長9(1604)年2月,年44歳。家久は重位を藩の剣術師範役に任じた。重位は雌雄を決する勝負,前後47回あり,だれも敵するものがなかったという。のち家久は名僧文之と語らい,法華経の「示現神通力」の言葉からとり,「御流儀示現流兵法」と称し,門外不出とした。以来一子相伝,その形・掟は現在第11代重政まで約400年,そのままの姿で伝承されている。東郷家に伝わる初代からの古文書は,昭和34(1959)年,県の有形文化財に指定された。また,野太刀自顕流は,示現流初代東郷重位の高弟の一人で,薬丸刑部左衛門兼陳が流祖である。当時薩藩では他流は禁ぜられ,約100年間,示現流のみで,薬丸家6代目までは示現流の門弟であった。野太刀自顕流は,薬丸家伝の野太刀に示現流をあわせ,実践的に編み出されたというが,その形・掟がいつごろ出来たかは定かでない。7代目のころから野太刀自顕流と名のって,示現流と別個なものになったものである。

出典:『鹿児島大百科事典』

 

薬丸半左衛門(やくまる はんざえもん)
文化2(1805)~明治11(1878)年。薬丸自顕流第8代師範。兼武の嫡子として城下新屋敷に生まれた。天保6(1835)年家督を継ぐ。家格は小番。安政元(1854)年当務精勤につき代官役に任ぜられた。半左衛門は天性謹厳剛毅であって薬丸流の奥義をきわめた。門弟には有村次左衛門・奈良原喜左衛門・大山綱良・篠原国幹・東郷平八郎ら幕末維新に活躍したものが多い。

出典:『鹿児島大百科事典』

 

 

 

 


 

 

資料名 東郷示現流目録 初段〜四段
形状 巻物
 

絵は心不去不来(示現流礒月の構え)である。

初段から4段までの目録である。

 

初段 左臂切断(臂=ひじ)

 

この題名の出所は禅宗の始祖,達磨大師が嵩山の少林寺で9年間,面壁座禅の修行をしていたとき,弟子の慧可が仏道の悟りを開こうとして,自分の臂を切断して誠を示した故事にちなんだものである。

 

「立」の打法
「立」の構えは形の上からみても「立」の姿をしている。二尺前後の刀でも,一尺三寸前後の短刀でも「立」の構えで刀を抜くときは,手のひらは教則の通りに握り,右手の親指のつけ根の骨のところできつく押さえるように握り締め,刀の鯉口(こいぐち=刀のさやの口)を二,三寸引き割るようにして垂直に抜き放つのである。このようにして刀を抜くのは,刀の切っ先から抜けるようにするためで,抜き終わった形は縦に一直線になるものである。

 

「双」(雙)の打法
「双」とは敵と対等の位置と形にあるという意味である。双方ともに蜻蜒(とんぼ)の構えで太刀を持ち、 そのまま切り込めば相打ちになる形である。この打法の特徴は、動揺した相手を打つことである。「双」の打法をよく悟り、よく知って、左右の肱を曲尺形にして相手が自分の左肱を打ち込むように仕向けると、相手はその意図を知らないので、空を切った後であっと気づいて動転し、自分を打ちつけようと太刀 を振り上げる。その隙を突いて相手の肱を切り落とす打法である。相手はまた、蜻蜒の構えで太刀を振り上げる。その時にできる相手の肘の隙をねらって打ち込むのである。

 

「越」の打法
「越」の技は未来蜻蜒の構えから,打ち出すべきところを打ち出さず,足は踏み止まらず常に前に動かしていく。右の拳(こぶし)は動かさず,左肘を引き引き,相手の左右手首あたりを切断するのである。刀を引くときは右手の付け根の辺りを打つように引くので,竪(たて)に打たず,横に打ち付けるところが肝要である。

 

二段 横指横切

 

示現流以外の流儀では,通常柄持ちは,左右掌,大指,人差指との間で握るのである。しかしこのような握り方は万変に応じることができない。これに対し横指横切は万変に応じることができるのである。

 

「寸」の打法
「寸」のきまりは柄を握った左右の手首を胸につけ,太刀の鍔(つば)をあごから二寸程離して,太刀を真っすぐに持つのである。足は基本の構えで狭く踏み揃え,体は立ったまま,両足を敵の方に向けて右足を踏み込んで左足のかかとを離さず,足先を回して,柄は胸から離さず,すり上げ振りかぶって左脇の腰の骨に手が触れるように,太刀を振り下ろして相手の太刀の鍔元を打つのである。

 

「満」の打法
「満」の打ち方は,敵との距離をすばやく飛び込んで縮め,太刀を打ち出す時は,体をまっすぐにして右足を踏みきって先に進んだ左足を踏みそろえるまで飛び込んで打つのである。

 

「煎」の打法
「煎」は「寸」「満」の段階より劣り,敵も自分と同じ段階である。双方蜻蜒に持ち,構えて相打ちに打ち合う境地である。相打ちの段階で相手を倒すのは難しいが,意地と技の修行を積めば,敵の左拳を切断し,容易に敵を打ち倒せるものである。

 

三段 磯月(そげつ)

 

月夜の波が磯にはたと打ちあたり,あっと思う時は月影も見えず心には何もない。このことは無念無想になったことであるから,太刀はこのような時に打つべきである。

 

「平」の打法
兵法の平の心持が大切である。磯月の,きはわりのがれざる所を思っていかにも,やすやすとはたはたと打つことである。平の心持の太刀は前にひきく,横にもって,つい立って打出せば,はたはたと留めることができる。

 

「安」の打法
安とはやすらかの意味であり,平の心得と同じである。太刀を何となく振上げて少しも支障なく,先へ先へと打ち,敵の太刀の動くところを一刻も早く,やすやすと何回でも打ち当てる心得である。相手が太刀を出さぬうちに早く打つことが大切である。

 

「行」の打法
太刀を振上げて左,右,真中からもはたはたと打つことができる。これもするすると支障なく先へ行く足であるので行と名づける。油断なくさらさらとはこぶ歩みである。このようにすれば敵は応ずることができないという。

 

四段 雲耀

 

雲耀というのは雲が輝くと書き,雲にいなびかりがすることである。ぴかぴかする時に世界中に光を放つ,天と地を分け隔てなく一瞬のうちにひかり渡る。この早さは言語に言い尽くせない。三段までは強くて,早い味を述べたが四段では更にその上の早い味を述べるために雲耀と名づけた。

 

「軽」の打法
軽いといえば早く,つよく打ち当てるべき味であるという。文字通り横にもち,雲耀の味同様に敵が動くところをすぐに打つ。

 

「道」の打法
過去と未来の間を中有という。仏教では対立した二つを離れた不偏にして中正な道をいう。ここでの道は刀を抜き出してふり上げずに中より打ち出す間を道といい,太刀の持ちかたは,はらい打のかまえであり,敵の打出をかまえのまま,早く,強く,敵のこぶしをはたはたと打つことである。

 

「真」の打法
真というのはまことである。これの打つ様は太刀を右の肩にふりかたげもって,何となくゆるゆるともち,打つ時せいを入れて,はたはたと打つ,これの打つ様は真の打である故になかなか,おおかたに打っては真の字に相違する。刀を入れまことを出して大地の底までも打ちくだくべきと思い入れて打つべきである。

 

出典: 『かごしま文庫21 示現流』,『示現流聞書喫緊録』 鹿屋体育大学 平成10年

 

 

 

 


 

 

資料名 東郷重持弓術図
形状 絵・絵画等
 

薩摩の弓術日置流は,島津家久が宇喜多秀家の家臣本郷伊予守義則を師として弓術を学んだことに始まる。東郷長左エ門重尚は本郷義則の門に入り射術秀逸と評判を取ったので鹿児島に呼び,射術の相手とした。義則の病没後に,家久は重尚を従え上洛し,日置弾正忠正次の正統を伝える吉田一水軒印西に重尚を入門させ,奥義を学ばせた。ここで薩摩弓術の師範役を命ぜられた。よって薩摩日置流の始祖は家久にして,その射術の妙所を後世に伝えたのは重尚である。 東郷重持に至るまで9代二百余年の間,弓術の師範役として藩主の指南を勤め,藩内幾十万の  門弟を養育した。
また,明治時代になり,東郷重持は,吹上御苑及び袖ケ崎公爵島津邸において腰矢数矢及び貫徹の射術を展覧に供し奉った。

出典:『薩摩日置流管見』

『薩摩と琉球』

『薩摩と琉球』

 

 

資料名 薩琉海路図
形状 軸
 

薩摩から琉球に至る航路及び港湾の状況などを詳細に記した実用性の高い航海図です。鹿児島から沖縄本島を経て,西表島に至る航路や港湾も詳細に描かれ,地域ごとの石高が示されています。

 

 

 

 


 

 

資料名 琉球人行粧之図2
形状 巻物
 

琉球館(琉球館)について
鹿児島城下(現在の食糧事務所合同庁舎および鹿児島市立長田中学校の敷地)にあった琉球関係の役館。古河古松軒が天明3(1783)年夏ごろ薩摩を歴遊した時の記録『西遊雑記』に,「琉球館を一見せしに,門番有りて内に入る事を禁ぜり。およそ百人ばかりは鹿児島へ渡り居て琉球の産物を売買し,または交易をする事にて,何れも日本の言葉を七八分もつかふといへり。田舎よりも京へ登りて諸藝を習ふやうに,琉球人は鹿児島に渡りて学文をし諸藝を習ふ事にして,和歌もよみ手跡も見事なる琉球人有るなり。天窓(あたま)は有髪にて小童の髪結びしやうに何れも丸分けにして,(こうがい)をさして居るなり。衣は日本にいふ居士衣のごとし。儀式葬祭の節はいろ いろの冠衣服もあるべし。右は平生のなりなり。容体は柔和に見えて,顔長にして人品あしからず。
五雑俎に琉球は醇なりと記せしはむべなり」と記し,『薩摩風土記』は琉球館および琉球商船の図を写し,「きり石のへい,御殿は外武家のごとし。玄関前のはたは風しるしなり。御公儀様御高札,琉官屋舗の前にあり」・「琉球商船は願ば他国より役宅ものは,島へも参事,国法度なり。訴はできるなり。外国の人は,琉球人とはなしする事も法度なり。りう人はかんない(琉球館内)に居なり。
外嶋の唐人は町とんや(問屋)あり。りう人,町にて芸子遊び御法度なり。唐物・琉球御法度なり。
またぬけ漬物,天下様厳敷御法度なり。りうきうにては日本の金銭とはやりとりあれども,外の島にてはしろものととりかへなり。さとう五斤に米一升のかふゑきなり。りう人もの言は,唐人に逢へばもろこしのことば,日本人にはなせば日本の言葉,薩摩言葉より能わかるなり。大和言葉とて,かの国にて習といふなり。至て人物はやわらかなり。琉人,さつまの人をさして口大和(くちやまと)といふ。京坂江戸をおく大和といふ。午未の風にて日本へ来る。玄子の風にて彼地に下る」と記しているが,薩摩の琉球口を通じての唐貿易を取り扱うための役所で,調所広郷が家老の身で「琉球館聞役」に任ぜられていること,さらに調所の死後家老島津久宝を琉球掛に任じていることなど貿易事務の重要性を語っている。なお中国福州にも琉球館が置かれ,進貢・接貢船の唐貿易の機関となっていた。
出典:『鹿児島大百科事典』

 

 

 

 


 

 

資料名 天保壬辰新鋟中山聘使略
形状 巻物
 

 

 

 


 

 

資料名 琉球館上使取持次第
形状 巻物
 

『琉球の書道家(鄭嘉訓,鄭元偉)と歌人宜湾朝保』

『琉球の書道家(鄭嘉訓,鄭元偉)と歌人宜湾朝保』

 

資料名 鄭嘉訓書
形状  巻物
 

鄭嘉訓,よび名を古波蔵(こはくら)親方といい,琉球の人である。宝暦(1756)年那覇の松崎原に生まれ,泰橋又は松崎山人と号した。幼少の頃から書に巧みで,清国に遊学7年,謝犧(字体が違うので確認してください)に筆法を学ぶ。用筆遒勁米?(べいふつ)の風あり,近世書家の魁(さきがけ)と称賛された。島津家に招かれて諸士に書を教え代々の藩主の寵遇を受けている。当時磯の別邸では,床の掛軸をはじめ額面,屏風の類に至るまですべて嘉訓の書であったが,今は一つも残っていないという。没年不詳。

出典:『薩摩の国学』

 

鄭嘉訓(てい・かくん)

1767~1832。19世紀初期の沖縄の代表的な書家。久米村に生まれる。古波蔵親方(こはぐらウエーカタ)。名は爾方(じほう)。号は泰橋(たいきょう)。鄭氏家譜によると,1791年25歳のとき,御右筆相付役となり,96年から2年間読書習礼のため,中国福州で学ぶ。中国への旅は,謝恩使に随行し,あるいは進貢使として行ったことを合わせると3度あった。そのうちでも1806年尚灝王(しょうこうおう)即位の謝恩使の江戸上りに儀衛正として随行したことは,中国旅行に匹敵する大旅行であった。これらの鹿児島行きを通じて,書家として認められ,16年には,島津候の招聘を受けることとなり,1年半鹿児島に滞在して,藩士の書道指導に当たった。その年,紫金大夫となり,紫冠を頂き,24年58歳のとき久米村の最高官である総理唐栄司(久米村総役)となった。書は,現在も沖縄ばかりでなく鹿児島にもたくさん残っており,行書や草書体のすぐれた書法を見ることができる。

出典:『沖縄大百科辞典中巻』

 

 

 

 


 

 

資料名 鄭元偉書
形状  軸
 


 出典:『薩摩の国学』「薩摩書人伝稿」,昭和61年

 

 

 

 


 

 

資料名 宜湾朝保和歌書
形状  軸
 

宜湾朝保(ぎわん ちょうほ)1823年3月5日~1876年8月6日(尚灝20~明治9)三司官・歌人。
唐名は,向有恒(しょうゆうこう)。松風斎と号す。父の向延楷(ていかい)・宜野湾(親方)朝昆(ちょうこん)(?~1835,盛島親方とも称する)も,三司官を務めている。朝保は三男であったが,兄たちが早死にしたため,父の死後わずか13歳で家統を継ぎ宜野湾間切総地頭となる。そのご各職を歴任し,52(尚泰5)年に日帳主取(ぬしどり),2年後に鎖之側(さすのそば)に昇格している。56年,その職のまま進貢使となって中国へ渡り,58年5月に帰国,6月にはその報告のため薩摩へ上国し,翌年3月に帰国している。そのあいだに<斉彬(せいひん)崩れ>を経験,その影響はやがて王府内部にも及び,<牧志・恩河事件>へ発展する。朝保は職責上,また薩藩の歌友との関係からも斉彬派と目されるが,かえって斉彬派に不利な証言を準備し,加増糺明(きゅうめい)奉行に加わり,王府の主流にとどまって62年5月には三司官に任命される。68年に明治政府が樹立し,廃藩置県がなされたときは,維新慶賀使の副使(正使は伊江朝直)として上京,尚泰王を琉球藩王に封ずるという命を受けて帰る。このことは,当初,薩摩支配からの脱却を意味するものと受け取られ,朝保は優遇されたが,琉球処分の断行で非難が集中し,75年には辞任,翌年不遇のうちに死んだ。朝保は近世沖縄最大の歌人でもあり,香川景樹(かげき)の桂園派に属し,八田知紀(とものり)に師事,樺山資雄や税所敦子らとも交わりを結んでいる。在番奉行福崎季連と提携して大いに歌道をおこし,<門人無慮数百人>といわれた。『沖縄集』『沖縄集二編』を編み,私家集には『松風集』がある。上京のとき吹上離宮御歌会で詠んだ歌に,<水石契久>と題して<動きなき御世を心のいはかねに かけてたえせぬ滝の白糸>がある。

出典:『沖縄大百科事典』上巻

『桜島 ~江戸時代と大正時代の大噴火~』

『桜島 ~江戸時代と大正時代の大噴火~』

 

 

資料名 桜島爆発絵図 

                                 形状  軸
 

画は大隅半島の上空から西方の桜島を見下ろしたような構図で描いたものである。桜島の中腹からは熔岩が空に向かって噴き出し,流れ出た熔岩が有村や古里の集落に達している。上空は噴煙に厚く覆われ,噴煙の中では火山雷が激しく鳴り響いている。海は波立ち,その中を避難する人を乗せた船が垂水・牛根方面へ向けてこぎ出されている。藩に多大な被害をもたらした噴火の様子が克明に描かれている。

出典:『鹿児島歴史探訪』

 

 

 

 


 

 

資料名 安永年間大噴火桜島東方面「桜島御神火之事」

                             形状  軸
 

左側に「大正三年三月十一日寫上田」とある。これは,大正3年の大噴火で江戸時代の噴火について記された資料が見直され,このときに複写されたものである。右側に「櫻島御神火之事 濱崎諸右エ門所蔵」とある。『桜島御神火之事』は作者・成立年・原本ともに不明で,県立図書館に写本のみ存在する。

出典:『史料からみた桜島火山安永噴火の推移』

 

 

 

 


 

 

資料名 大正三年桜島大爆発写真

                               形状  写真
 

 

 

 


 

 

資料名 桜島大爆発写真

                                 形状  写真

『斉彬と久光・忠義の時代』

『斉彬と久光・忠義の時代』

 

 

 

資料名 島津久光公御筆「従軍北征」

                              形状  軸
 

                                 首 征 笛 天
                                 月 人 偏 山
                                 中 三 吹 雪
                                 看 十 行 後
                                 萬 路 海
                                 一 難 風
                                 時 磧 寒
                                 回 裏 横

                                 島津久光

1817年~1887年。第29代薩摩藩主忠義の父。斉彬の異母弟。本名は初め忠教・邦行,のち久光と改めた。幼名は普之進,次に又次郎,山城・周防・和泉・三郎と称し,大簡・双松・頑固道人・無松翁などの号がある。斉興の第五子として,鹿児島城に生まれる。生母は斉興の愛妾お由羅である。若くして重富島津家の養子となり,学問を好み,和漢の史籍に通じていた。弘化年間(1844年~1848年)外国軍艦が琉球を中心に来航するようになると,久光は軍事面を担当し,嘉永元(1848)年には藩政に参与した。安政5(1858)年斉彬の遺命によって久光の子忠義が藩主となり,翌年父の斉興も没すると,久光は忠義のもとめに応じて本家に復帰した。久光は国父とよばれて,藩政の実権を握り,忠義を後見した。さらに大久保利通などの精忠士とともに,斉彬の遺志を継ぎ,中央政界への進出を志し,文久2(1862)年兵を率いて上京した。寺田屋で有馬新七などの過激派の志士を弾圧して,勅使大原重徳を奉じて江戸に下り,幕政の改革に成功した。この年,久光は西郷を龍郷から帰国させ,率兵上京に先発させたが,西郷は下関で待てという命にそむいて大阪に向かった。久光はこれに激怒し,西郷を山川港に護送の上,徳之島,さらに沖永良部島に流罪に処した。久光は,江戸からの帰途生麦事件を引き起こし,翌年の文久3年薩英戦争になったが,イギリス艦隊をよく撃退した。8月の政変後も,公武合体運動を進めて,朝議参与となったが,永続せず帰国した。元治元(1864)年西郷を沖永良部島からよびもどし禁門の変や第一次長州征伐に尽力させた。これ以後は,西郷・大久保を中心に,薩摩藩は長州藩と同盟を結んで,倒幕路線を歩んだ。維新の諸改革が行われると,久光はこれに内心不満を抱いた。西郷の下野後,大久保によって内閣顧問に任ぜられ,翌年左大臣に任命されたが,保守的な傾向が強く,明治8年辞任して郷里鹿児島の玉里邸に隠退した。同20年12月6日病死し,国葬によって福昌寺に葬られた。

出典:『鹿児島大百科事典』

 

 

 

 


 

 

資料名 島津忠義公御筆「乕」

                              形状  軸
 

島津忠義

天保11(1840)年~明治30(1897)年,明治維新第29代薩摩藩主。 名を初め忠徳,ついで茂久・忠義といい壮之助・又次郎・修理大夫と称し,城下重富邸で,島津久光の長男に生まれる。安政5(1858)年12月藩主となり,一年近くは祖父斉興の補佐をうけ,その後は父久光の後見により藩政を行った。安政の大獄の進行に伴い,大久保利通など同志40余人が脱藩義挙の計画を立てたのを聞き,翌安政6(1859)年,彼らに自筆の諭書を与えた。彼らを精忠士と呼び,尊王の深意を告げて,人事を刷新し,藩の危機を乗り越えた。斉彬の遺志を継ぎ藩政改革と陸海の軍備充実に努めた。文久2(1862)年の久光の率兵上京,幕政改革,生麦事件と薩英戦争に,藩を挙げて行動した。禁門の変による第一次長州征伐に,福岡藩まで兵を出し,三条実美など五卿の大宰府護衛にも努めた。また,薩英関係を改善して五代友厚などによる留学生を派遣し,イギリスから紡績機械を購入して,磯に日本最初の紡績工場を起こした。パリ万国博覧会には,薩摩琉球国の名前で,幕府と対等に出品した。慶応2(1867)年,討幕の密勅が下るや,大兵を率いて上京し,王政復古に努力。翌年の鳥羽伏見の戦いで幕府を破り,関東・東北の戦いに官軍の主力として活躍した。ついで版籍を奉還して,鹿児島知藩事となり,廃藩置県により知事をやめ,のち貴族院議員となった。1897年12月26日に没し,国葬により城下常安墓地に葬られた。

出典:『鹿児島大百科事典』

『敵中突破の島津義弘とその時代』

『敵中突破の島津義弘とその時代』

 

 

資料名 島津義弘公肖像

                                 形状  軸
 

 

 

 


 

 

資料名 新納忠元肖像

                                形状  軸
 

 

 

 


 

 

資料名 朝鮮出兵島津勢虎狩絵巻

                               形状  軸

『廃仏毀釈と鹿児島』

『廃仏毀釈と鹿児島』

 

 

資料名 文之和尚肖像

                                形状  軸
 

 

 

 


 

 

資料名 三国名勝図会

                                形状  和書

『幻の名画-安永八年鹿児島噴火図,桜島大爆発』

『幻の名画-安永八年鹿児島噴火図,桜島大爆発』

 

 

資料名 桜島爆発絵図 安永年間 (鹿児島市側)

                           形状  軸
 

 

 

 

資料名 桜島爆発絵図

                                形状  軸
 

安永年間の噴火
安永8(1779)年海岸沿いの民家で井戸が煮えたぎり,赤く焼けた噴石が飛び,南岳の南側中腹と北岳北東側中腹から溶岩(安永溶岩流A)が流れ出し,148人が死亡したと言われる。(桜島燃亡霊碑文)(安井,1958年)。この活動は天明元(1781)年にかけて続き,島津藩から幕府への届け出には,多数の家屋の全半壊,死亡者が出たとされる。この時に流出した安永溶岩はカンラン石をわずかに含む両輝石安山岩で,現在では桜島の北東側と南岳の南側で見られる。

鹿児島市南林寺町にある南洲寺の南隣りには「桜島燃亡霊等」と刻まれた,安永大噴火による死者の供養塔がある。この石碑は,安永8年の冬に建てられたもので,その両側の面に男75人,女70人,男女不明3人,計148人の戒名が刻まれている。裏面には,古里村6人,有村57人,脇村34人,瀬戸村46人,黒神村5人と書いてある。

 

大正大噴火では,鹿児島市の死者13人,負傷者96人(地震で圧死等)桜島は死者2人,負傷者1人記念碑は死傷者140人

出典:『鹿児島大百科事典』『かごしま文庫13桜島大噴火』

 

現在鹿児島県を代表する火山である桜島については,奈良後期の噴火関係史料がある。その史料の記載から,当該期桜島は「麑嶋(鹿児島)」と呼ばれていたと考えられている。鎌倉末期以降は,「向島(向之島)」と呼ばれた。

出典:『近世薩摩における大名文化の総合的研究』「大隅国正八幡宮領に関する一考察」

 

 

 

 


 

 

 

資料名 安永年間桜島昼夜大噴火の図

                              形状  軸
 

「両山腹から溶岩流出-とび交う流言」安永8年10月1日は,朝から浜辺の井戸水は沸き上がって流水のようになり,海水は紫色に変わっていた。午前11時ごろ,遂に南岳から白煙が上がった。午後2時ごろには南岳の下の部分,有村の上にある燃之頭と呼ばれる辺りから黒煙の大噴出が起こった。その高さは上空3里ばかりと思われた。大爆発音とともに,噴煙の中には無数の電光が走り,噴火の勢いはますます盛んとなっていった。午後4時ごろになると,高免村の上にある瓶掛と呼ばれる辺りからも噴火が起こった。噴火による鳴動はますます激しくなり,翌10月2日の早朝には,二俣村まで噴石が落下し始めた。垂水方面を襲った噴煙は,10月3,4日になってようやく薄らいできた。鹿児島城下への降灰もひどく,4日の午前10時から午後2時過ぎまでは,暗夜の状況になっていた。鹿児島城下では,「鹿児島まで火勢が及ぶぞ」「飛び石が落下してくる」「津波が押し寄せて来るぞ」などの流言が飛び交い,住民の恐怖感は募るばかりであっや。そして,鹿児島の城下は屋上、樹上を問わず降灰に覆われたが,東南風が吹かなかったため,被害は少なかった。しかし,風下に当たる垂水・牛根・福山などは噴石や降灰のため大きな被害を受けたのである。この時の噴火で,桜島はその北東部と南側の両山腹から溶岩を流出させた。また,軽石も大量に噴出したため,桜島の東側から南側にかけて,2~3メートルの厚さで堆積し,耕地はすべて埋没した。
出典:『かごしま文庫13桜島大噴火』

 

 

 

 


 

 

資料名 安永年間大噴火桜島西方面

                             形状  軸
 

上側に「安永年間大噴火櫻島西方面」,左側に「大正三年三月十一日上田光○写」,右側に「櫻島御神火之事濱崎諸右エ門所蔵」とあります。『桜島御神火之事』作者・成立年・原本ともに不明,県立図書館に写本のみ存在。写本は濱崎諸右エ門所蔵となっている。島内のことに詳しいので,島民の記録の可能性が高い。安永9年11月頃の記述があるから,成立はそれ以降。…

出典:『史料からみた桜島安永噴火の推移』

『薩摩と琉球-斉彬の時代』

『薩摩と琉球-斉彬の時代』

 

 

資料名 琉球人行粧之図1
形状 巻物
 

 

 

 


 

 

資料名 琉球人行粧之図2
形状 巻物
 

 

 

 


 

 

資料名 琉球人行粧之図3
形状 巻物
 

 

 

 


 

 

資料名 南島海路略図
形状 軸
 

 

 

 


 

 

資料名 范仲淹書
形状 巻物
 

 

 

 


 

 

資料名 八田知紀翁肖像写真
形状 写真
 

 

 

 


 

 

資料名 山田中斉詩書
形状 軸
 

 

 

 


 

資料名 和歌短冊 福崎季連
形状 短冊

『薩南学派の系譜-桂庵禅師とその弟子たち』

『薩南学派の系譜-桂庵禅師とその弟子たち』

 

資料名 桂庵禅師肖像
形状 軸
 

 

 

 


 

 

資料名 文之和尚肖像
形状 軸
 

文之(ぶんし)

弘冶元(1555)~元和6(1620)年。文之の姓は,湯佐氏,名は玄昌,雲興軒,時習斎ともいい,また南浦,懶(らん)雲,狂雲と号した。父は河内の人,日向飫肥南郷の外浦(とのうら)に生まれたので南浦と号したという。龍源寺の大儒一翁に就いて桂庵~月渚(げっしょ)~一翁の桂門宋学の学統をついだ。島津義久,義弘,家久の三代の寵遇をうけ, 大隅の安国,正興両寺を掌り,また城下大龍寺の開基となった。また,鎌倉建長寺の長となったこともある。かれは臨済僧であったが,儒仏二教の一致を説き,『四書集中』『周易伝義』の和点,『南浦文集』『砭愚論(へんぐろん)』などの著があり,大いに世に行われた。門流に如竹,平田純正ら多くの俊秀を出し,如竹の門からは愛甲喜春(きしゅん)を出した。文之は,儒僧たると同時に,義久,義弘,家久三代の黒衣の外交家として大いに働き,ことに琉球服属の時の功は大きかった。鉄砲伝来について『鉄砲記』をあらわしている。

出典:『称名墓誌巻之三』『人物伝備考附録』『三国名勝図会巻之六』

 

 

 

 


 

 

資料名 重野安繹書
形状 軸
 

重野安繹(しげの やすつぐ)

文政10(1827)~明治43(1910)。幕末・明治期の歴史家・漢学者,字は士徳,号は成斎。薩摩藩士として昌平黌に学んだが,特に古学派の考証学に親しみ,この頃より学才を認められた。帰藩後,藩校造士館で教える。薩英戦争の際にはその談判にあたった。明治維新後,文部省に出仕,明治19(1886)年臨時修史局編修長となり,この間,史料収集を行ない「大日本編年史」の編集を主宰。その学風は厳密な実証主義にたち,児島高徳や楠正成の史話は事実でないと論証し【抹殺博士】とよばれた。またこの間,明治21(1888)年,東大教授となり,東大国史科を設置。史学会会長となり久米邦武・星野恒らと史学科の基礎をきずく。歴史のみならず詩文にすぐれ,明治時代屈指の漢学者であった。文学博士。貴族院議員。「大日本維新史」明治32(1899)年,「右大臣吉備公伝簒釈」明治 35(1902)年,「国史綜覧稿」明治39(1906)年,「重野安繹史学論文集」13(1938)年~14(1939)年

出典:『コンサイス人名辞典 日本編』

『短歌王国鹿児島』

『短歌王国鹿児島』

 

 

資料名 八田知紀翁肖像写真
形状 写真
 

八田知紀
寛政11(1799)年~明治6(1873)年。鹿児島市西田に生まれる。国学に志し和歌を香川景樹に学び桂園派歌人として名をなした。薩摩藩京都留守下役を命ぜられ近衛家に出入りした。明治5(1872)年宮中御歌掛に任ぜられる。桃岡と号し高崎正風,黒田清綱ら著名な歌人を育成,著書に『八田知紀歌集』『しのぶ草』『調の直路』などがある。雅麗な桂園調の中にも雄渾な歌風を持つ。「いくそたびかき濁しても澄みかへる水やみ国の姿なるらむ」

出典:『鹿児島大百科事典』

 

 

 

 


 

 

資料名 税所敦子書
形状 軸
 

税所敦子

文政8(1825)年~明治33(1900)年。京都に生まれ本姓は林。幼児より和歌を好む。20歳で薩摩藩士税所篤之に嫁ぎ28歳で夫を失い薩摩にある姑のもとで孝養をつくした。島津斉彬に認められ世子の守役となり,のち島津久光の女光子が近衛家に嫁いだとき侍女となって京都に赴く。明治8(1875)年高崎正風に推され宮中に入る。従五位掌侍。歌集に『御垣の下草』『御垣の下草拾遺』がある。「衣手に一ふさかけて山吹のつゆもたがはぬ時を知るかな」

出典:『鹿児島大百科事典』

 

 

 

 


 

 

資料名 黒田清綱翁郭公和歌(馬上聞時鳥)
形状 軸
 

黒田清綱
天保元(1830)年~大正6(1917)年。鹿児島藩士黒田清直の長子,幕末国事に奔走,明治元(1868)年山陰道鎮撫総督府参謀,翌年,翌年鹿児島藩参政を経て教部少輔,元老院議官などを歴任,子爵,のち貴族院議員,枢密院顧問官となり宮内省御用掛を兼ねる。八田知紀に和歌を学び明治大正両天皇のお歌所の一人として活躍した。瀧園社を開き子弟を育てた。遺書に『瀧園歌集』がある。画家黒田清輝は,その養子。「漕ぎいでて遠つ近江の灘ゆけば雲の波間に富士の山見ゆ」

出典:『鹿児島大百科事典』

『幕末の薩摩~お遊羅騒動の背景~』

『幕末の薩摩~お遊羅騒動の背景~』

 

 

資料名 島津重豪公御幼少之筆

                              形状  巻物
 

島津重豪(しまづ しげひで) 延享2(1745)年~天保4(1833)年

島津家第25代。幼名を善次郎,元服して兵庫久方,のち松平又三郎忠洪(ただひろ),襲封後重豪と改めた。号は南山・懋昭(ぼうしょう)。重年の嫡男。鹿児島に生まれる。藩政を継いだのは宝暦5(1755)年。木曽川治水工事竣工の翌年,工事費調達のための負債22万両を加え,藩債は88万両に達していた。このため徹底した緊縮政策をとり,藩主みずから一汁一菜に改めるなどその範を示したが,たび重なる凶作や江戸藩邸火災にも災いされてその実は上がらなかった。かれは進取の気性に富み学問好きであったことは有名で,歴代オランダ商館長や商館医シーボルトと親交のあったことでもわかる。この性格がかれの積極的開化政策の推進力となった。まず安永2(1773)年藩学造士館・武芸練習場演武館を,翌安永3年医学館を設立した。ついで安永8年には明時館(めいじかん,天文館)を設置し薩摩暦を発行した。また,かれの庇護した学者の協力をえて『南山俗語考』をはじめ『琉球物産志』『質問本草』『成形図説』『鳥名便覧』など学問上有益な書物を編纂した。このほか,「繁栄方(はんえいほう)」を置き大いに上方風(かみがたふう)をとり入れ薩摩に新風を吹きこませた。そして三女茂姫の嫁した一橋豊千代が将軍(11代家斉)となった天明7(1787)年それをはばかって隠居した。将軍の岳父重豪の権威は高く,高輪藩邸を訪れるものあとたたず高輪下馬の世評があり,開化政策の出費とあいまって財政を破局に追いこんだ。襲封した斉宣(なりのぶ)は重豪の政策が加重した財政難を克服するため,樺山主税・秩父季保(すえやす)を家老に任じ徹底した緊縮(復古)政策を断行した。自分の理想と政策を否定された重豪は烈火の如く怒り,斉宣を隠居,樺山・秩父ら切腹以下16人に達する大処分を行った。これが世にいう「近思録崩れ」(文化朋党事件・秩父崩れ)でその一党が近思録心酔者であったことからこの名がつけられた。このあと重豪は藩主斉興(なりおき)を介助し,財政改革を調所広郷に託すのである。…

出典:『鹿児島大百科事典』

 

 

 

 


 

 

資料名 賢章院様御歌一首

                               形状  軸
 

賢章院は,島津斉彬の母。鳥取藩主池田家の出身。彌姫。27代島津斉興にとつぐ。斉彬は長子。賢章院夫人は,将来島津家を継ぐべき斉彬の訓育に極めて熱心であり,斉彬はこの母の影響を強く受けた。…

出典:『鹿児島大百科事典』「島津斉彬」

 

周子(賢章院)は,和漢学問の学問の素養がふかく,島津家にとついだときの嫁入り道具の中に本箱がたくさんあり,中に左伝・史記・漢書などが入っていて,役人たちがおどろいたという。斉彬の幼少のころから漢籍の素読をさずけたが,将来三か国の藩主となる身だからと,きびしくしつけた。また,斉彬13歳の冬父斉興は「月に山水」の絵をかき,側近の早川謀を通じて母の賛をもらわせたところ,周子はすぐに「月照破煩悩山,水上浮慶生船」という賛をいれた。さらに周子の作を斉彬が自らうつしたものと伝える「三十六歌仙こほろぎ物語」が斉彬を祭った照国神社(鹿児島市)におさめられ,『遺芳録』にのっている。こおろぎ・鈴虫など三十六の昆虫・小動物類が自らの名をよみこんだ形の和歌をつくるという式の,ユーモア感をただよわしたなかに仏教因果の理を説いた物語である。たとえば「はち」のよんだ「さほさしていつか渡らん三つ瀬川(三途の川)はちす(蓮)の舟にのり(法)をもとめて」のたぐいで,斉彬はこれを愛誦した。その影響であろう,斉彬も信仰心があつく,26歳のとき,天台宗の教理にある「十如是」をテーマとした和歌をつくっている。 安政期外交面で活躍した幕臣川路聖謨(としあきら)の妻高子が,幼少のころから鳥取池田家で周子の継母転心院につかえ,周子をよく知っていることを聞いた斉彬が,安政3年母の三十三回忌にその思い出を書いてもらった「笹の一葉」と題する一文も,『遺芳録』におさめられている。事の性質上賛辞にみちているが,周子が斉彬ら子供たちの教育に熱心で,信仰心のあつい人であったことをつたえている。 周子は斉彬の下に男子三人,女子一人を産むが,男子の一人斉敏は母の実家の親戚筋の岡山藩主池田家に養子入りし,ほかの二人はともに二,三歳で死に,女子祝姫は土佐藩(高知県)主山内豊煕(とよひろ)夫人となる。斉敏は天保13年に死ぬが,周子も文政7(1824)年8月16日斉彬16歳のとき34 歳で病死,法名を賢章院殿玉輪恵光大姉(ぎょくりんえこうだいし)という。この段階での母の死は斉彬は大きな痛手で,もし周子がずっと健在であれば25年後の異母弟久光との家督争いの発生は疑問である(『追録』)。

出典:『島津斉彬 人物叢書』

 

 

 

 


 

 

資料名 島津順聖公書御幼年御筆「瑶臺」

                             形状  軸
 

島津斉彬 文化6(1809)年~安政5(1858)年

島津家第28代当主。幼時から将軍家斉の岳父である曾祖父重豪に寵愛され指導された。優れた偉材であったので,藩の内外から藩主となることを期待されていた。しかし父斉興の重臣および側室由羅らが,その子久光を継嗣にしようとの動きがあり,斉彬の襲封は実現しなかった。高崎崩れ(お遊羅騒動)後,斉彬の危機を知らされた大叔父黒田斉溥らの斡旋で斉興が隠居し,43歳で襲封した。
国事多難の時期に藩内をまとめ,富国強兵策を率先し強力に実行した。政策は多方面にわたるが,特筆すべきものは科学的事業と洋式造船事業である。反射炉の建設は困難だったが「西洋人も人なり,佐賀人も人なり,薩摩人も同じく人なり,退屈せずますます研究すべし」と励まし,成功させた。西洋式軍艦昇平丸,蒸気船雲行丸などの造船をおこなった。篤姫を将軍家定夫人として,幕府に対する発言力を強め,病弱の将軍家定の継嗣問題が起こると,松平慶永らと共に徳川斉昭の子一橋慶喜擁立の運動をすすめた。
井伊の大老就任により形勢不利になった情況を朝廷を擁して幕府を改革しよう,そのためには斉彬が機を見て薩摩の精鋭を率いて上洛する,その日に備えて城下天保山の調練場で7月の炎天下に練兵を指揮していたが,急病となりついに逝去した。安政5(1858)年7月16日,50歳(満48歳10カ月)。斉彬が藩主であった期間はわずか7年半(生涯を通じて鹿児島にいた期間は4年半)に過ぎなかったが,斉彬の影響は大きかった。遺志は「順聖院様御深意」として引き継がれた。薩摩藩が幕末の政局を指導し,明治維新の原動力たり得たのは斉彬によるところが極めて大きい。斉彬は城山の麓の照国神社に祭られ,多くの県民の心の中に今も生きている。…

出典:『鹿児島大百科事典』

 

 

 

 


 

 

資料名 島津久光公御筆「従軍北征」

                              形状  軸
 

「天山雪後海風寒し。横笛偏に吹く行路難。

碩裏征人三十萬,一時首を廻らして月中に看る」

従軍北征(軍に従って北征す)

 

匈奴(中国を脅かした北方の遊牧民)の地に在る天山(中国新彊ウイグル自治区にある山脈)に,雪が降った後は,青海から吹き来る風が厳しく寒く殆ど堪えられない。折しも誰かが横笛で最も悲哀を催す行路難の一曲を吹奏したが,その聲の余りに悲しいので,砂漠の上に居る三十万の遠征軍が皆盡(ことごと,尽)く申し合わせたように,同時に首を廻らして,月明の下に互に顔を見合わせ,涙を流して悲しみに堪えられない様子である。…

出典:『唐詩選詳説下』(唐詩選第7巻七言絶句)

 

島津久光 1817~1887

第29代薩摩藩主忠義の父,斉彬の異母弟。本名は初め忠教・邦行,のち久光と改めた。幼名は普之進,次に又次郎,山城・周防・和泉・三郎と称し,大簡・双松・頑固道人・無松翁などの号がある。斉興の第五子として,鹿児島城に生まれる。生母は斉興の愛妾お由羅である。若くして重富島津家の養子となり,学問を好み,和漢の史籍に通じていた。弘化年間(1844~1848)外国軍艦が琉球を中心に来航するようになると,久光は軍事面を担当し,嘉永元 (1848)年には藩政に参与した。安政5(1858)年斉彬の遺命によって久光の子忠義が藩主となり,翌年父の斉興も没すると,久光は忠義のもとめに応じて本家に復帰した。久光は国父とよばれて,藩政の実権を握り,忠義を後見した。さらに大久保利通などの精忠士とともに,斉彬の遺志を継ぎ,中央政界への進出を志し,文久2(1862)年兵を率いて上京した。寺田屋で有馬新七などの過激派の志士を弾圧して,勅使大原重徳を奉じて江戸に下り,幕政の改革に成功した。この年,久光は西郷を龍郷から帰国させ,率兵上京に先発させたが,西郷は下関で待てという命にそむいて大阪に向かった。久光はこれに激怒し,西郷を山川港に護送の上,徳之島,さらに沖永良部島に流罪に処した。久光は,江戸からの帰途生麦事件を引き起こし,翌年の文久3年薩英戦争になったが,イギリス艦隊をよく撃退した。8月の政変後も,公武合体運動を進めて,朝議参与となったが,永続せず帰国した。元治元(1864)年西郷を沖永良部島からよびもどし禁門の変や第一次長州征伐に尽力させた。これ以後は,西郷・大久保を中心に,薩摩藩は長州藩と同盟を結んで,倒幕路線を歩んだ。維新の諸改革が行われると,久光はこれに内心不満を抱いた。西郷の下野後,大久保によって内閣顧問に任ぜられ,翌年左大臣に任命されたが,保守的な傾向が強く,明治8年辞任して郷里鹿児島の玉里邸に隠退した。同20年12月6日病死し,国葬によって福昌寺に葬られた。…

出典:『鹿児島大百科事典』

 

島津久光と明治維新

世間では明治維新と鹿児島というと,すぐ西郷隆盛と大久保利通の名が挙げられる。そして島津久光といえば,その西郷を島流しにした「ひどい殿様」という理解が一般的で,幕末史上の久光の役割について十分理解されてきたわけではない。
長州藩や水戸藩のように,早くから優れた活躍をした藩において,途中,挫折があり,それから立ち上がるのに苦労し,あるいは立ち上がれずに維新を迎えた藩がある。それに比べて,薩摩藩が,とにもかくにも一貫して挙藩統一行動をとった点に,大きな特色があり,それが結局,討幕戦への勝利を導く重要なポイントとなった。もし久光がいなければ,果たして薩摩藩が,そういう一貫性を持ち得たかどうかは,大いに疑問である。これこそが久光が堅持して譲らなかった基本的立場だったと思う。……
もちろん作戦参謀格の大久保利通,人望を集めた統率者西郷隆盛らの役割を決して見落としてはならない。ただ久光がいなければ,これらの人たちの優れた能力も,果たして,いわゆる適材適所に発揮できたかどうかは疑わしいとさえ思う。

出典:『島津久光と明治維新-久光はなぜ,明治維新を決意したか』

 

 

 

 


 

 

資料名 海老原家墓写真

                                 形状  写真
 

海老原清熈 (えびはら きよひろ) 享和3(1803)年~おそらく明治20年前後。

城下の浄光明寺(現在南洲墓地)門前に,中村太兵衛兼高の二男として生まれる。童名,岩次郎。文化5(1808)年2月海老原盛之丞清胤の養子となる。元服して宗之丞清熈と称する。うまれつき読書を好み,荻生徂徠,太宰春台,新井白石,貝原益軒,伊藤仁斎,同東涯,雑史,漢籍軍書等を広く学び,経済実務の学問を身につけた。21歳より山川郷渡の蔵役を求め,数年にして金五百両の利益を得たが,ことごとく養家の借財を返済して信用を博した。天保6(1835)年12月蔵方目付に任ぜられ,上阪し,はじめて調所笑左衛門に謁する。時に清熈31歳の気鋭,その所信をはばかる所なく調所に直言し,その卓抜した才能を認められ,以後調所のブレーンとして改革方随従となる。いわゆる天保の改革の諸政策の発案・推進者となり,中枢的役割を果たす。調所の自殺後,斉彬派に憎まれて退役し,隠居名を雍斎と称し,不遇の境涯に陥る。さらに文久3(1863)年には「謀主トナリテ姦意ヲ助候者」として斉彬派より追罰をうける。明治17(1884)年8月,維新後の殖産興業の時代的要請に応じて,鹿児島県令渡辺千秋に呈出した天保改革関係の書類や彼の覚書は,貴重な資料である。

出典:『薩摩藩天保改革関係資料1』鹿児島県史料刊行会,『 幕末の薩摩』『 鹿児島県の歴史』『海老原清熈履歴概略』『海老原清熈家記抄』『鹿児島大百科事典』

 

幼少から書を好み,広く漢書を読んで経済実務の学問を身につけた。21歳から山川の蔵役,天保6(1835)年蔵方目付になって上阪し,調所広郷に面接,意見を述べて認められた。以後調所のブレーンとして財政再建に腕を振るい納戸奉行として国分干拓もやった。調所の自決後斉彬派に憎まれて辞官した。

出典:『郷土と日本を築いた熱き薩摩の群像』

 

 

 

 


 資料名 調所笑左衛門墓写真

                                形状  写真
 

調所の功績

単に破局の薩藩財政を再建して莫大な貯備金を藩庫にのこしたのみならず,甲突川の浚渫と天保山の造成,甲突川五大石橋の建造をはじめ領内の道路,河川,港湾,橋梁の開発整備,藩邸や社寺の造建,農政紊乱の矯正,大阪蔵屋敷の国産品売買の改正など。枚挙にいとまないほどで,その余沢は長く後世に及び,維新活動の薩藩のエネルギー源となった。
調所の功績は今でこそ正しく知られているが,斉彬の擁立を阻んだことから斉彬派から憎まれ,調所の自殺後,家は零落のはてに一家離散し,そのブレーンであった海老原清熈も退役させられただけでなく,追罰まで受けた。西南戦争後,県令渡辺千秋が調所の事業に着目,それにこたえて海老原の著述が生まれた。その後,学問的な整理公開もすすみ,わが国学界の共有財産となった。なお調所が財政改革に成功した所以は,重豪および斉興の強力で不動の信任があったこと,彼は性淡泊で人を視るの明にすぐれ,また人々を用いるに広い度量を以てし,誠実勤勉を以て身を処したからである。

出典:『鹿児島大百科事典』『調所広郷人物叢書』

 

 

 

 

 

 

資料名 反射炉図面

                                  形状  図面
 

第28代当主島津斉彬は,早くから国防の緊急なことを痛感して,造砲の改善に着意した。そこで反射炉の建設を計画し,嘉永5(1852)年ひな形を設けたが,結局失敗した。そこで大反射炉を建設すべく同年冬から磯邸の竹林(御取添地)を開き,江夏十郎・中原猶介・田原直助らの努力によって翌年の夏落成した。溶鉄の成績も良好であったらしく,「反射炉も此の間ちょっと試みも為し仕り候処,鉄忽ち鎔解仕り候事に御座候」と水戸候に報じている。しかしその後故障が出たので,江夏らが改修に当たった。入費の莫大を憂えて中止の意見もあったが,斉彬は厳然として新反射炉の築造を命じ,安政3(1856) 年の春竣工した。新造の反射炉もしだいに破損したので,重ねて一基の新築に着手し安政4(1857)年の夏落成した。ここにおいて5年の星霜を数え,3回の改築を経,苦心の結果二基が完成した。斉彬はこれに満悦し「反射炉此節十分に出来仕り,大悦に罷り在り候間,御吹聴申上候」と越前候に書き送った。

出典:『鹿児島大百科事典』

 

「西洋人モ人ナリ佐賀人モ人ナリ薩摩人モ同ジク人ナリ退屈セス倍々研究スベシトノ 御事」

出典:『斉彬公言行録1』

『城下絵図~伊集院,高城,出水,大口,加治木~』

『城下絵図~伊集院,高城,出水,大口,加治木~』

 

 

資料名 薩藩御城下絵図(伊集院)

                             形状  軸
 

薩摩藩は特有の地方組織を持っていた。その一つが外城制度である。外城とは,鹿児島本城(鶴丸城)に対する支城の意味で防衛拠点としての意義を持っていたが,慶長20(1615)年の一国一城令により外城は廃止された。外城に住んでいた武士は外城衆中と呼ばれ,伊集院の武士は伊集院衆中と呼ばれた。安永9年外城が郷と改められ,衆中は「郷士」と呼ぶようになり,鹿児島に住んでいた武士は「鹿児島衆中」から「城下士」に改められた。
他藩では住民のうち武士の占める割合は6%に過ぎなかったが,薩摩藩では30%を越えていた。これは薩摩藩が全九州を平定しようとするころ多数の武士を必要とし,豊臣秀吉に破れ三州の領土内に圧縮された後も武士として残されたからと言われている。
他藩では武士はほとんど城下に住み,藩主から支給される知行米によって生活したが,薩摩藩では各外城に在郷家臣である郷士を配置した。郷士は農工に従事して,自らの生活を営むかたわら,地方の行政及び治安に当たり,一朝事あるときは武士として出陣する。そのため薩摩藩では,他藩に見られない膨大な軍隊を編成することができた。
このことは,明治維新の際に其の真価を発揮した。
外城の数は廃置分合がしばしば行われたが延享元(1744)年には113外城であった。各外城(郷)には麓と呼ばれる地域があり,郷士の中心的居住地域であった。郷の行政の中心役所として地頭仮屋が置かれていた。伊集院郷の地頭仮屋は,現在の伊集院小学校の敷地内にあった。
出典:『伊集院町誌』「2外城制度と伊集院郷」平成14年

 

 

 

 


 

 

 

資料名 薩藩御城下絵図(高城)

                               形状  軸
 

慶長4年それまで殿領(豊臣秀吉直轄地)であった高城郡は慶長の役の戦功によって島津忠恒(家久)に返還され,以後島津義弘夫人(忠恒の母)の湯沐の地として,押川強兵衛公近を代官として統治し,慶長18年になって外城成立(川内市史)。江戸初期当郷は湯田・西方・大川・高城上・高城下・麦之浦・網津・草道・水引・千台宮内・千台大小路からなる。地頭仮屋は高城下之村(麓村)中央部の妹背城(高城古城)下に置かれ,周辺に麓が形成された。
寛永6年網津・草道・水引・宮内・大小路が水引郷として分立,大川も阿久根郷に入る。
出典:『角川日本地名大辞典46鹿児島県』「髙城」

 

 

 

 


 

 

資料名 薩藩御城下絵図(出水)

                               形状  軸
 

寛文年間に作製されたとものと推定される出水最古の「出水外城図」の中に,五代地頭町田勘解由の仮屋を明記してある。またこの古地図は,平松番所(野間関)や国境線に配置された郷士の駐屯地,麓の郷士居住地,その他,河川,耕地の存在などを示す重要な資料である。

出典:『出水郷土誌』昭和43年

出水は,薩州島津家領,豊臣秀吉直轄領を経て慶長4(1599)年ごろに藩直轄地として成立。麓を中心に「出水十ケ外城」が置かれたが,17世紀中ごろ野田,長島が分立して8か郷となる。この絵図は17世紀後半の様子を示しており北側には平松(野間原)番所や米ノ津津口番所が見える。また17世紀前半に麓には100石取以上の郷士が10余人いたが,これは高岡郷に次ぐ人数である。

出典:『黎明館企画特別展 薩摩七十七万石-鹿児島城と外城-』

 

 

 

 


 

 

資料名 薩藩御城下絵図(大口)

                               形状  軸
 

 

 

 


 

 

資料名 薩藩御城下絵図(加治木)

                             形状  軸
 

寛文年間(1661~1672)の様子が描かれている。中世加治木城の南側平地に領主仮屋が置かれ,周囲に郷士屋敷,南に浦町があった。

出典:『黎明館企画特別展 薩摩七十七万石-鹿児島城と外城-』

『名越左源太と島の三大旅行家』

『名越左源太と島の三大旅行家』

 

 

資料名 名越左源太書

                                形状  軸
 

名越左源太時敏(なごや さげんた)

文政2(1819)年~明治14(1881)年。鹿児島城下,下竜尾町生まれ,当時物頭の職にあった左源太は,嘉永2(1849)年お由羅騒動に連座して,嘉永3(1850)年大島遠島の刑に処せられ,名瀬間切,名瀬方,小宿村に安政2(1855)年までの五カ年間を住民と生活を送った人である。名越家は代々薩摩藩の要職にあり,左源太も教養深い人であった。長い間にわたる島生活を見聞して絵や文に記録し,天文,地理,動植物,住民の年中行事,衣食住,言語,冠婚葬祭,産業,行政に至り,詳細に藩政時代の奄美大島が記録されている。この精確な記述が『南島雑話』・『遠島録』として残され,こんにち南島研究において柱となっている。

出典:『鹿児島大百科事典』

 

 

 

 


 

 

資料名 南島方面巡視絵巻

                               形状  巻物
 

七島問答(しちとうもんどう):『七島問答』は明治17(1884)年3月頃,当時の渡辺千秋県令の命を受け,白野夏雲(当時県勧業課吏員)が島々を踏査したときの記録である。鹿児島の南に点在する七島(口之島・中之島・臥蛇島・諏訪之瀬島・悪石島・宝島)を,約40日間にわたって巡視し,島ごとの地形・港湾・村浦・道路・神社・履歴・風俗・遺跡・地名・地質・山林・原野・物産等について,問答式に記述されている。見聞録の中には,当時の南島航路図,島ごとの船着見取絵図が著者の手によって緻密に描かれており,問答式の記述とあわせて興味深い。原本は県立図書館に所蔵されている。

出典:『鹿児島大百科事典』

 

 
 

 

 

 


 

 

資料名 御領内薩隅日琉球島々踏程全図

                            形状  巻物

『史料に見る鶴丸城』

『史料に見る鶴丸城』

 

資料名 薩藩御城下絵図(鹿児島)

                             形状  軸

 

これは,寛文10(1670)年ごろの鹿児島城下の絵図で,城下の様子をあらわした最も古い絵図であるといわれています。
絵図からは当時の城下の様子とともに,鶴丸城の様子をも概観することができます。城の辺りを見ると,現在,県歴史資料センター黎明館のあるところには「大隅守殿居宅」(大隅守は島津家19代光久。),県立図書館や市立美術館などがあるところには「薩摩守殿居宅」(薩摩守は光久の子の綱久。)と記載されており,そこには堀や橋,石垣,門などが描かれています。
また,絵図には城山のところに「鹿児島城」と記されており,そこには「番所」や「武道具屋」などとともに,「此門出入ナシ」と記された門などが描かれています。さらに,城山への登り口として,「大手ノ門」や「屋敷内よりの道」,「城番之者通道」なども記されています。
出典:『鹿児島歴史探訪』

 

 

 

 


 

 

資料名 三国名勝図会

                                形状  和書
 

この史料は天保14(1843)年,島津家27代斉興のころ,五代秀尭(五代友厚の父。御記録奉行などを歴任。)を総裁として,橋口兼柄(御記録奉行や町奉行などを歴任。)らが斉興の命を受けて編纂したもの(全60巻)をもとに,明治38(1905)年に和とじの20冊として刊行されたものです。史料には,薩摩藩領である薩摩・大隅・日向(一部)三国の自然や寺社,物産などについて記されており,薩摩藩について調査・研究するための貴重な史料ともなっています。
この「三国名勝図会」の巻之一には「鹿児島ノ城」と題されて,鶴丸山(現在の城山)という名の由来や城山にあった上山城のこと,鶴丸城の築城にかかること,鹿児島に城を構えることの利点などについても記されており,鶴丸城のことについていろいろ知ることができます。

また,史料中の「鹿児島ノ城鹿児島坂本村にあり、即府治なり、山に據て城とす、其山は鶴丸山といふ、此山の形、舞鶴に似たり、故に名を得たりとぞ、・・・」との記述から,現在の城山が「鶴丸山」と呼ばれたいわれが分かります。

出典:『鹿児島大百科事典』

 

 

 

 


 

 

資料名 島津御本丸前面景

                               形状  写真
 

この写真は,「島津御本丸御書院景」や「島津御本丸池畔景」,「島津御本丸庭園景」などの写真とともに,大正12(1923)年に購求したと,当館の図書原簿に記されています。

これらの写真は,明治5(1872)年に明治天皇が鹿児島や長崎,熊本など西国を行幸された際に,天皇に同行した写真家が撮影した写真を複製したものではないかと考えられています。
明治6(1873)年に本丸が焼失し,明治10(1877)年に二之丸が焼失していることから,この写真は,焼失前の鶴丸城の姿をうかがうことのできる貴重な写真です。
写真からは,御楼門や御楼門前の石橋など,本丸の門前の様子などをうかがうことができます。

出典 :『南日本新聞』平成7(1995)年10月15日付け,『目で見る鹿児島市の100年』郷土出版社,『 黎明館特別展薩摩七十七万石-鹿児島城と外城-』

 

 

 

 


 

 

資料名 島津御本丸池畔景

                               形状  写真
 

「島津御本丸池畔景」と題されたこの写真は,二之丸側を背にして池畔を手前に撮影されたものです。
成尾常矩が作成した「鶴丸城内殿舎配置図」で確認すると,「御池」の向こうに写っている建物は「麒麟之間」や「鷺之間」などの部屋がある建物であることが分かります。
写真の手前に橋が写っていますが,一説には,この橋は,現在,鹿児島県歴史資料センター黎明館裏の池にかけられている「九皐橋」ではないかといわれています。「九皐橋」はもともと本丸の東南隅にあったと考えられています。

出典 :『南日本新聞』平成7(1995)年10月15日付け,『目で見る鹿児島市の100年』郷土出版社,『 黎明館特別展薩摩七十七万石-鹿児島城と外城-』,『城山-自然と歴史が紡ぐ鹿児島のこころ-』読売新聞西部本社

 

 

 

 


 

 

資料名 島津御本丸庭園景

                               形状  写真


「島津御本丸庭園景」と題されたこの写真は,「島津御本丸池畔景」の写真にも写っている御池や庭園を,建物のある方から写したものであると思われます。
この庭園のつくり等については,当館所蔵の図書「薩藩庭園調査覚書」(永見健一著 昭和3(1928)年)の26~27ページに「一山下御殿の庭」(本丸庭園のことか。)として,次のように記載されています。

(抜粋)
一山下御殿の庭
・・・然し、其実況写真が数枚今残存して居り、例へば県立図書館其他で見る事の出来るのは不幸中の事である。
そして,其写真と古老の話しとを総合すると大体此の庭は次の様なものであった事が想像出来る。
(一)池。岩組で築いた池畔。玉里上庭に見るのと全く同型の亀の姿体を象る石を池中に浮べる石の一板反橋

(二)対庭の家屋主体の片隅から磯岩組を組み出し池に進み入れる。それに添ふて水を落し流す
(三)背景に稍厚い植込。中景及前景に若干の配植。等等 やや
(四)・・・

出典 :『南日本新聞』平成7(1995)年10月15日付け,『目で見る鹿児島市の100年』郷土出版社,『 黎明館特別展薩摩七十七万石-鹿児島城と外城-』,『城山-自然と歴史が紡ぐ鹿児島のこころ-』読売新聞西部本社,『薩藩庭園調査覚書』

『古文書を見る』

『古文書を見る』

 

資料名 伊集院文書

                                  形状  巻物
 

鹿児島県立図書館所蔵,伊集院文書は,24通の書状を巻軸仕立一巻に収めてあります。内容は島津義久書状6,島津義久袖判町田久倍書状1,島津義弘書状 11,島津忠恒(家久)書状6の計24通で宛名は何れも伊集院下野守,抱節とあります。この受取人が近世初頭,藩主義久・義弘・家久(忠恒)に歴仕し,家老として政務を担当して藩政の基礎を固めた功臣伊集院下野守久治入道抱節です。

出典:『鹿児島県立図書館本 伊集院文書』,『鹿児島県史料拾遺15』

 

 

 

 


 

 

 

 

資料名 島津家文書08 さてもごりやうでん云々

                            形状  巻物
 

 

 

 


 

 

島津歳久室の申状案で,文禄元(1592)年秀吉に憎まれた歳久がその厳命を受けた兄義久らの軍兵に追われて竜ヶ水に自裁したあと,一たん宮之城に孫袈沙菊(常久)とその母(忠隣室)と共にたてこもり,のち義弘らの慰撫により城を出て家の再興をはかった歳久夫人の哀情を披瀝した有名な文書です。

出典:『鹿児島大学 文学科論集』「日置島津家文書と島津久慶(2)」

『三州統一 ~薩隅日三州沿革巻物を中心に~』

『三州統一 ~薩隅日三州沿革巻物を中心に~』

 

 

資料名 龍伯公宛近衛信尹書簡

                              形状  軸
 

 

 

 


 

 

資料名 島津貴久書

                                  形状  軸
 

 

 

 


 

 

資料名 薩隅日三州沿革古図

                                形状 軸

『三山陵(吾平,高屋,可愛)と山幸彦・海幸彦』

『三山陵(吾平,高屋,可愛)と山幸彦・海幸彦』

 

吾平山陵絵図

資料名 吾平山陵絵図

                                                                                                                    形状    軸
 

 

 

 


 

 

資料名 高屋山上陵

                                  形状     絵・絵画等
 

 

 

 


 

 

資料名 三山稜の図

                                  形状     絵・絵画等
 

神代三山陵の考証
明治5年,明治天皇は鹿児島に行幸された。そしてご到着の翌日,6月23日には宿舎の庭にご拝所を設けられて可愛,高屋,吾平の三山陵を遙拝された。天皇が山陵に参拝されるということはかつてなかったことで当時の県民はこのことに感激した。この三山陵を考証したのが,御醍院真柱であり,田中頼庸であった。
田中頼庸は,鹿児島城下稲荷町に生まれたが,14歳の時に父が職務上の失敗から死んだ。しかも扶持米は取り上げられ,頼庸は大島へ流された。だが,この苦難に屈せず,島の子どもたちに句読や習字を教え,読書に励んだ。帰鹿後,孝養と勉学の士ということで人材の必要に迫られていた島津斉彬に認められ,京都詰めの藩士に採用された。
京都から帰った頼庸は,明治元年造士館国学局の都講,ついで神社奉行となった。明治3年には,新政府の依頼で三山陵の調査にかかった。頼庸の担当は高屋山陵。それまで高屋山陵は肝属郡国見岳とされていた。それを溝辺村と考証した。その著「高屋山陵考」には,日本書紀と古事記の記述を参照し,大隅風土記などの例をあげ,「溝辺郷の木佐貫」を山陵と断じた。
出典:『郷土人系中巻』「神代三山陵の考証」

『薩摩の海将・陸将-日露戦争から100年』

『薩摩の海将・陸将-日露戦争から100年』

 

 

資料名 東郷平八郎書
形状

 

東郷平八郎(とうごう へいはちろう)
弘化4(1847)年12月22日鹿児島城下加治屋町に生まれる。海軍大尉小倉壮九郎の弟。幼名仲五郎。薩英戦争に16歳で初陣。戊辰戦争では春日に乗り組み,宮古湾・函館沖海戦に参加。明治3(1870)年海軍に入り見習い士官。明治4年イギリス留学,テームズ海軍訓練学校に入る。西南戦争で兄,壮九郎が薩軍に加わり戦死する。明治11年新造艦「比叡」で帰国。7月中尉,8月大尉,翌年12月少佐となる。明治16年第二丁卯艦長,明治17年天城艦長となり,清仏戦争視察のために,揚子江を遡り漢口に至った。明治21年奏任一等の大佐となり,以後比叡,浅間,浪速の艦長となる。明治26年ハワイの政変に,日本居留民保護に任じた。明治27(1894)日清戦争では豊島沖海戦で清艦を撃破,清兵を載せたイギリス汽船を撃沈して,朝野を震駭させた。その後,黄海海戦,威海衛攻撃に活躍。明治29年海軍大学校長兼海軍技術会議議長,明治33年常備艦隊司令長官となり,北清事変で清国に出動した。翌年舞鶴鎮守府司令長官となっていたが風雲急をつげる明治36年連合艦隊司令長官となり明治37(1904)年日露戦争で旅順のロシア艦隊をくり返し攻撃して全滅させた。その間,6月大将となる。明治38年5月ロシアバルチック艦隊を朝鮮海峡で捕え,戦艦6隻を含む19隻を撃沈,戦艦2隻を含む5隻を捕獲する大戦果をあげた。戦後,軍令部長となり,明治42年軍事参議官,大正2年元帥となる。大正3年より7年間,東宮御学問所総裁となり,昭和9年5月30日没,国葬には100万人が参加。侯爵,従一位,菊花章頸飾が与えられた。

出典:『鹿児島大百科事典』

 

 

 

 


  

資料名 上村彦之丞書
形状

 

上村彦之丞(かみむら ひこのじょう)
海軍大将,男爵。
嘉永2(1849)年5月1日,鹿児島城下平之町に生まれる。父藤一が加世田に赴き漢学を教えたので,少年期を加世田で送る。戊辰戦争に従軍したのち,明治4(1871)年に海軍兵学校に入る.。明治27(1894)~28年の日清戦争では,少佐で豊島沖・黄海海戦,威海衛占領に参戦,明治37(1904)~38年の日露戦争では,中将で第二艦隊を率い,蔚山(うるさん)沖海戦でウラジオストック艦隊を破り,その折,海中に漂うロシアの将兵627人を救助した。この敵兵救助は,日本武士道の精華として広く世界に伝えられた。戦後,横須賀鎮守府長官,第一艦隊長官,明治43(1910)年大将,翌年軍参議官を経て,大正3(1914)年後備役に編入。従二位に叙せられ,大正5(1916)年8月7日,鎌倉で没した。日露戦争の功で男爵を送られた。

出典:『鹿児島大百科事典』

 

 

 

 


  

資料名 大迫尚道筆
形状

 

大迫尚道(おおさこ なおみち)
嘉永7(1854)年~昭和9(1934)年。陸軍大将。鹿児島市生まれ。
陸軍士官学校(旧2期) 卒業。のちドイツに留学,駐独公使館付武官。日清戦争では,野砲第一連隊大隊長,第一軍参謀として従軍。日露戦争では第二軍参謀長として沙河,黒溝台,奉天会戦などの作戦指導に当たった。のち第十八,第四各師団長,軍事参議官などを歴任。大正4年大将。退役後は救世団を組織,愛国心かん養につとめた。兄・尚敏(第七師団長,二百三高地攻略)とともに兄弟大将として知られる。

出典:『鹿児島大百科事典』