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『西郷隆盛展 肖像画と書を中心に』

西郷南洲書 石版刷巻物 (敬天愛人)

No. 188
タイトル 西郷南洲書 石版刷巻物 (敬天愛人)
著 者 名 南洲翁(西郷隆盛)
出 版 年 不明
出 版 者 不明
出 版 地 鹿児島
種  別 掛軸
請求記号 K72サ
大 き さ 36.5×168.0(32.5×92.0)

 

南洲翁の生涯を貫く思想を,最も簡潔に表現し,その多端な行動の基本理念を表現している句で,鹿児島に帰った西郷隆盛は,揮毫を依頼されたときに最も多く書いた。

 

西郷隆盛 年譜

 

年号  西暦   年齢
文政10(1827)   0 12月7日下加治屋町山之口馬場で生誕
天保10(1839)   12 右ひじを負傷し,以後学問に励む
弘化元(1844)   17 藩の郡方書役助となる
弘化4(1847)   20   下加治屋町郷中の二才頭となる
嘉永3(1850)   23 伊藤茂右衛門に陽明学,無参和尚に禅を学ぶ
嘉永5(1852)   25 父死去で跡目相続(この年祖父,母も死去)
安政元(1854)   27 中小姓となり,藩主斉彬に従って江戸へ
安政4(1857)   30 藩主に従い帰藩後,江戸勤務を命ぜられる
安政5(1858)   31 帰藩後情勢を報告,京都で斉彬の訃報に殉死を考える,帰藩後僧の月照と入水,西郷は蘇生
安政6(1859)   32 潜居のため奄美大島龍郷村へ
文久2(1862)   35 復職したが,無断上京罪で沖良部島へ
文久3(1863)   36 囲いの中で島の子供たちのために塾を開く
元治元(1864)   37 召還され,京都の禁門の変で藩兵を指揮
慶応2(1866)   39 坂本龍馬立ち合いのもと薩長提携を密約
慶応3(1867)   40 王政復古断行を決める
明治元(1868)   41 江戸城明け渡し,弟吉二郎は新潟で戦死
明治4(1871)   44 参議の辞令,西郷隆盛の名で正三位に
明治6(1873)   46 朝鮮派遣使節中止で参議を辞職,鹿児島へ
明治7(1874)   47 私学校をつくる
明治8(1875)   48 吉野寺山に吉野開墾社を創立
明治10(1877)   50 政府へ尋問のために東上する(西南戦争),9月24日別府晋介の介錯により自決
明治22(1889)     憲法発布の大赦で罪を赦され正三位追贈
明治31(1898)     東京上野の銅像(高村光雲作)除幕
昭和12(1937)     鹿児島・城山麓の銅像(安藤照作)除幕


 

南洲翁書私学校綱領掛軸

No. 13
タイトル 南洲翁書私学校綱領掛軸
著 者 名 南洲翁(西郷隆盛)
出 版 年 不明
出 版 者 不明
出 版 地 鹿児島
種  別 綱領(掛軸)
請求記号 K37ナ
大 き さ 91.5×91.0(46.0×79.0)

 

一 道を同し,義和協ふを
以て暗に聚合せり故に
此理を益々研究して道義
におひては一身を顧みず必ず踏
み行くべきこと

 

一 王を尊び民を憐れむは學問
の本旨,然れば此天理を極め,
人民の義務に臨ては一向難
にあたり一同の義を相立べき事

 

私学校とは,西郷隆盛が政府高官を辞め帰郷する際に,鹿児島出身の軍人,文官で西郷について辞職するものが数百人に及んだので,これらの青年に一定の方向を与え,指導教育するために明治7(1874)年に設立された学校です。旧近衛兵を収容し,篠原国幹が監督した銃隊学校と旧砲隊出身者を収容し,村田新八が監督した砲隊学校から成り立っていました。本校の他に市内に12の分校が設けられ,また諸郷にも分校ができました。県令大山綱良の努力で旧藩から県に引き継がれた資金を使い運営もされるようになり,私学校出身者が県政でも活躍しました。しかし,この時期の反政府運動が広がってくると若者の中にはその風潮に影響を受ける者が多くなりました。また,政府側の挑発もあり,私学校派は,西郷隆盛を立てて西南戦争を引き起こした。戦後,私学校は解体され,学校の施設も戦争で焼けています。現在,石塀のみが残り,その時の弾痕が石塀の随所に残っています。


 

西郷隆盛肖像画(油絵)矢野彩仙筆

No. 320
タイトル 西郷隆盛肖像画(油絵)矢野彩仙筆
作 者 名 矢野彩仙(盛経)
出 版 年 不明
出 版 者 不明
出 版 地 不明
種  別 肖像画(油絵)
請求記号 K289サ
大 き さ 61.0×52.0

 

矢野氏は本名を盛経と云い,矢野彩仙はその画号である。明治32年2月に鹿児島城下に生まれ,昭和44年8月16日に没した。享年70歳。矢野氏の祖先は藤原姓で,のち薩摩の島津家に仕えて3万石といわれる矢野出羽守の直系の後裔。盛経の母方の関家は備中国新見城主の分家で,その子孫には島津斉彬の信望厚かった学者関勇助があり,西郷隆盛や大久保利通などその門人であった。
矢野盛経氏は若くして徳富蘇峰について国史と国文学を修め,歴史学者として知られ,著者には「日羅上人伝」や「芦北郡史」などがあり,また九州における古い石橋の研究者としてその数千枚の原稿も残っている。油絵については,鹿児島の洋画家大牟礼南涛氏について学び,特に肖像画が得意であった。明治百年を記念して明治天皇をはじめ,維新前後から明治時代にかけての志士・功臣約百十点(八号~十号画布)の肖像を,その入院生活中に数年かかって描きあげた。
なお本館には『鹿児島県の橋梁』上下がある。(原稿を製本したもの)また矢野彩仙の肖像画(油絵)は西郷隆盛の他に東郷平八郎(No.321),大山巌(No.322),大久保利通(No.323),森有礼(No.324)の計5点が所蔵されている。

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