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『鹿児島城下のあゆみ-上町・下町・西田町を中心に』

資料名 鹿児島上町写真
形状 写真

 

 

 

 


 

資料名 薩藩御城下絵図(鹿児島)
形状

 

鹿児島城下の様子を描いた最も古い絵図は,鹿児島県立図書館にある寛文十(1670)年頃の「薩藩御城下絵図」である。鹿児島城下は,嘉慶(かきょう) 元(1387)年に築かれた清水城(現鹿児島市稲荷町・清水中学校)を中核に形成され始め,島津氏の居城が,天文十九(1550)年御内(同大竜町・大竜小学校)に江戸時代に鶴丸城(同城山町)に移るにつれ,城下町も拡大・整備されていった。残念ながら,清水城・御内時代の様子を描いた古地図は現存していない。
さて,「薩藩御城下絵図」で一際目を引くのが,画面中央に描かれた鶴丸城である。鶴丸城は俗称で,正式には鹿児島城といい,当初は上山城(城山)とその麓に築かれた居館からなっていた。絵図でも上山城のところに「鹿児島城」とあり,武道具屋や番所などの建物が描かれている。城の登り口は,城の西方・東方・南方の三ケ所,南方の現照国神社裏手あたりが大手門であった。この上山城部分は,この後しばらくして使われなくなり,鶴丸城といえば,麓の居館部分を指すようになった。
その居館部分,現在,歴史資料センター黎明館がある本丸には「大隅守居宅」と,県立図書館や市立美術館がある二の丸には「薩摩守居宅」と書かれている。大隅守は十九代島津光久,薩摩守はその子綱久である。城の回りには整然とした町並が描かれている。海岸線は現在よりずっと内陸にあり,現易居町辺りだけが出島のように海に突き出て,南林寺(現松原神社)が海に面している。ちょうど,市内電車の通る辺りが海岸線だったと思われ,現小川町・堀江町・住吉町辺りはまだ海の中である。また,甲突川は「浅き砂川」とあり,南林寺の西が河口となっている。この川筋は,現在の清滝川。江戸中期にこれより西,現在の川筋に替えられた(詳細不詳)。天保十四(1843)年編さんの『三国名勝図会』にすでにいつ流れを変えたか分からないかのように書かれており,川筋直しがおこなわれたのは,十七世紀末か十八世紀前半のことと思われる。城下から地方に伸びる道は三本。西に伸びるのが出水筋だが,注記はない。北の伊敷方面へ伸びる道には「東郷道」,北東の吉野方面へ伸びる道には「大口・加治木よりの往還筋」と書かれている。また,吉野実方の稲荷川と交わる橋は「板橋」と注記されている。ここに架かる実方太鼓橋(1993 年流失)は寛永年間(1624~44)の建設と伝えられ,県内最古の石橋と目されていたが,この古地図を見る限り史実ではないようだ。

出典:『鹿児島歴史探訪』

 

 

 

 


 

資料名 正徳三年御城絵図
形状

 

島津氏21代吉貴は,正徳3(1713)年12月,城下からの火災防止のため,二之丸囲の長屋を堀に直し近辺の家来の屋敷を除去する願を幕府に上申した。そのときの願書に付けられた絵図の控えである。
出典:『黎明館企画特別展 薩摩七十七万石-鹿児島城と外城』

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